4 記憶

 その日の夜はなかなか寝付けなかった。

 

 布団に入ってからもう何十分も経っているのに、目を瞑っていても眠くならない。それどころか、時間が経つごとに眠気が無くなっていっている気さえする。


 今日が特別な日で、一日中気持ちが浮き足立っていたからだろうか。


 目を開けて隣の布団で寝ている紳一を見ると、気持ちよさそうにすやすや眠っていた。


 今日は新月だ。いつもは差し込んでくる月の光が全くない。


 このままここにいても、何も変わらない。私は紳一を起こさないようにそっとドアノブを回して、静かに部屋を出た。

 

 こんなに夜遅い時間に起きているのは初めてだ、おそらく。前にもこのような事があっただろうか。ないと思うが、いつもは何時に布団に入っていたのかさえ思い出せない。


 そんなことはどうでもいいか。それよりも、幼稚園児が今、ただ起きているというだけで、それがいけないことのような気がして、心臓の鼓動が速くなる。


 電気が点いておらず暗い階段も、不思議と怖くなかった。おばけが出てきそうだという恐怖心よりも、胸のどきどきが勝っていた。一段ずつ、音を出さないように注意して降りていく。


 一階はまだ電気がついていて、話し声が聞こえる。大人がしている話が気になって、私は気づかれないように細心の注意をはらって降りた。


 リビングのドアの前に立って、漏れてくる音を必死に聞いた。リビングのドアにはガラスが上の方にしかついていない。あとの部分は木でできている。私の身長なら、向こうから姿を見られることはない。


 最初は、ただの世間話だった。話し声からして、そこにいるのはおそらく四人。

 

 こっそり話を聞いているという今の状況に、さらにドキドキしてきた。


 …私、今、とーってもいけないこと、してるみたい。

 

 私の目は、もう完全に覚めてしまっていた。しばらくこの状態で聞いていると、自分の名前が出てきた時には驚いた。


「まゆみさ、良かったね。案外普通で。」

「そう?

 でも今日の朝、園児服着てたよ、あの子。」


 誰が私の話をし始めたのかはわからなかったけれど、二番目に発言したのは確実に美華さんだ。


 …間違えたの、恥ずかしいから言って欲しくなかったのに。


「そうか。

 今日一日観察してたけど、時々不思議そうな顔をしてるだけで何も気づいてない感じだったぞ。」

「うん、記憶はきちんと消せてるってことで良いんじゃない?」

「そうだな。」


 ………何の話?


  確かに思い返してみれば、今日はおかしいと思うことがいくつもあった。

 

 …昨日は、何をしてたんだっけ。一年前の誕生日は、誰に、何をプレゼントしてもらった?


 昨日までの記憶が、ない。


 私は、そこで初めて気がついた。忘れて思い出せないのではなくて、完全に消えている。


 消されたのだろう。今、リビングで話をしている人たちならば、記憶を消すくらい容易いものだ。消すだけではなくて、思い出そうとすると忘れたかのように思わせるように、私に力を使ったのだろう。でなければ、さすがに気づく。

 

 その記憶は、私にとってトラウマになってしまうような何かか、もしくは深花家にとって、私が知ってはならないことを知ったから消されたのか。


 その話ぶりからして、この事を知っているのはごく少数、しかもうちで力を持っている人ばかり。後者の説が濃厚であるような気がする。


 ただ、どちらにせよ、いつもならその部分の記憶だけを消すのに、なぜ今回は、生まれてから昨日までの記憶を全て消したのだろう。


「紳一の方は特に変わったことは無さそうだったよ。」

「そう。」


 ……紳一も?


 紳一も、記憶を消されているのだろうか。紳一と私が関係していること、か。聞けば聞くほど謎ばかりが増えていく。


 もう少し情報を得るべく、一言も聞き漏らさないように、さらに耳に神経を集中させて聞く。しくじって物音を立てないように、慎重に。


「それで、かいは…


「まゆみ。」


 話始めた時、名前を呼ばれた。私を呼ぶ声は、はっきりと聞こえた。ドア越しではなく、背後から。


「伊竜さん…。」


 振り向くと、そこに立っていたのは伊竜さんだった。お風呂あがりのようで、髪が濡れている。聞くのに集中し過ぎて、周りが見えていなかった。


 盗み聞きしていたことが、伊竜さんにバレてしまった。伊竜さんは厳しい顔つきで、こちらを真っ直ぐに見ている。


「ダメじゃないか。もう十一時も過ぎてるよ。」


 そう言って、伊竜さんは急に優しそうな笑顔に変わった。しかし、私の目に映っていたのは、不敵な笑みを浮かべる伊竜さんだった。


「ねられなかったの。」


 ドアの前で聞き耳を立てていたところをしっかりと見られたのだ。この言葉が何の言い訳にもならないことくらい、分かっていた。


 …逃げなきゃいけない気がする。


 私がほんの一瞬、階段に視線を動かした瞬間に、伊竜さんは私に近づき、頭を撫でた。


「寝れなかったのか。でも、」

 

「-もう、寝ないといけないよ。」


 私は、また、記憶を消されてしまった。

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