ホワイトアウト

黄間友蚊

第1話

 例えば、雲ひとつない晴天の日に海へ行く。地平線の先、海と空が入り混じって、視界一面が群青で覆われる。

 視界が一色に染まるのはそういう時だけではない。地吹雪、降雪、あるいは濃い霧が空と地面の境を消し去ると、そこにはコピー用紙のような、ジェネリックで異様な真っ白がある。ホワイトアウトとはそれだ。


 1月19日、インディアナ州は吹雪だった。

 午前中はほんのりと暖かかった。天気が悪くなると途端に息を潜める鳥のさえずりさえ聞こてくる。ピョー、ピョーという呑気な声は、これなら外に出てしまっても平気なのではないかと思わせるような穏やかさだった。

 彼は家の窓辺で、外を覗きながら天気予報が外れたのではないかと思ったのだ。が、そうではなかった。

 午後、みるみるうちに空が曇り始めた。それから忘れたとは言わせないとでもいうように雪が降ってくるまでに、時間はかからなかった。

 誰も、この雪の中を運転しようとは思わないだろう。雪国の人間ならば。

 ただ、彼の生まれはカリフォルニアだった。一年中暖かく、雪など降らない土地に住んでいたのが、大学のためにミッドウェストへと引っ越してきたのだ。雪を知らなかった。


 彼は家を出て、キネマへと向かった。どうせ暇をしているのなら、映画でも見よう、という悪い思いつきだった。ロッテントマトで評判の高い映画の上映期間が、もうすぐで終わってしまうところだ。これは後から付け足した言い訳ではあるが。

 キネマはよく行っているから道はわかる。家を左に曲がって89番ストリートを延々と走って、キネマ近くを何度か曲がればいい。それに一度入ってしまえば雪なんてなんともない。室内ならば大丈夫。と思ったのだ。

 行きはまだよかった。降り始めた雪が車を走らせるたびにふわりと舞うぐらいで、視界は悪くない。車のワイパーもちゃんと作動する。ラジオから流れている

『今日は吹雪だって』

『あら、この仕事終わったら帰れなくなってるかも』

『そりゃ困った。明日も続けてパーソナリティにならなきゃいけないや』

 などというしょうもないジョークも笑えた。立ち往生するほどひどくはならない。そんな確信が、彼の心のどこからか湧いてきた。ラジオは80年代のゲレンデソングが流れ始めた。

 ゲレンデソングが流行したその当時、彼は生まれていなかった。が、懐かしい曲だ。曲の作りだろうか、歌詞の言葉だろうか、それともただ80年代ですと言われたからだろうか。全部が三つ巴になって、懐かしさを醸し出しているのかもしれない。

 懐かしい曲を聞きながら、彼はキネマのどの席に座ろうかと考えていた。そこは全席自由席だから、早く行けば良い席が取れた。

 映画は3時からで、今は2時50分。どうせ誰もいないだろうから急ぐ必要もないだろう。この時ばかりは雪が降っていることに感謝した。午後にギリギリで映画館に滑り込み、一番前の席で泣く泣く見たこともあるからだ。


 キネマに着いて、チケットを愛想のいいアルバイトのチケットもぎりに渡す。頭のてっぺんでポニーテールにした髪が肩にかかっている。制服なのか黒いポロシャツにスラックス。高校生だろうか。屈託のない笑顔で「右手にある3番ですね。楽しんで」と言われて、彼は曖昧に頷いた。雪の中も自分のような客がいるばっかりにバイトに来なければいけないなんて、などと哀れに思う。


 彼は指定された「3番」の中に入って、異色な光景に驚いた。ごった返しているわけではなかったが、主要な席は取られていた。彼のような大学生はおらず、老人ホームの団体客がいたのだ。

 どうも老い先が短いと、無鉄砲になるのかもしれない。それとも、運転するのは自分ではないから、天気など関係ないのか。室内で行われる事に対して、それこそ彼らは気にすることなどないのかもしれない。バケツのような容器に入ったポップコーンを、皆でぐるぐると回しながら食べている。

 彼はその団体から二列前の真ん中に陣取って、コマーシャルを眺めた。特に面白そうだと思うものはない。ハリウッドの、そのコマーシャルを見ただけでオチまでわかりそうな映画は、好みではなかった。


 映画も似たようなものだった。ロッテントマトを信じてはいけない。うわべだけ綺麗に整えられた映画で、彼はすぐに集中力を切らした。一旦のめり込めないと映画は2時間弱座っていなければいけないという拷問に変わっていく。しかも金を払っているというのに。

 彼は途中から、やはり吹雪になって家に帰れなくなるのではないか、という不安がゆっくりと漣のように押し寄せてきて、気が気ではなかった。エンディングロールが流れ始めると、彼はすぐさま席を立った。暇つぶしに来たはいいものの、気が急いている。


 車を止めている間は銀世界だった。車へと向かう途中、誰にも汚されていない雪をサクサクと軽い音を立てて踏んでゆくのは楽しかった。だが走り出した瞬間、彼は世界がそうもきらめいていないことに気がついた。彼はその白銀の、というよりも白一色になった世界の中で帰路に着いた。

 信号は多分そう遠くないはずなのに、真っ白の視界の中からぼにゃりと赤色が見えるだけ。そう、ぼんやり、と言うよりは、ぼにゃり。時々風のせいか赤は強くなったり弱くなったりする。

 近づいているはずなのに、どんどん光が遠くなっていくような感覚に襲われた。彼は慌てて目の前の、かろうじて見える車輪の後に目を落とす。遠くをみていると遠近感覚がなくなるのだ。それ以外があまりにも同じ風景すぎる。


 夜の灯台のように彼を導いていた信号を過ぎると、目標にするものが無くなってしまった。

 この道を、どれぐらい進めば良いのだろうか。

 GPSが『4マイル先を左折』と言っているのは聞いた。が、その4マイルが分からない。1マイルとは、どんな距離だったか。そう思った瞬間、彼の目の前が真っ白になった。

 それはホワイトアウトのような物理的なものではなく、あたかも全く別の世界にいるような感覚にとらわれた、というメタファーでの白さだったのかもしれない。だがしかし、さっきまで真っ白な世界を凝視していたものだから、彼にはその境目がわからなかった。

 白い世界。キラキラと輝くスキーのゲレンデのような白さではなく、ぼったりと重たい色をしている。空気中の水分が目に見える形となって現れているのが雪だ。気体からから固体になったのだから重いはずだ。雪で家や車が潰れるような映像を見て「そんな事あるものか」と鼻で笑った自分を責めたい。雪は真夜中のように暗く、重いのだ。それを彼は知った。

 己はどうして、知った道だから大丈夫などと呑気に構えていたのだろう。例え吹雪いたとしても自分が死ぬことなどないという根拠はどこにあったのか。雪にまつわるニュースなら、例えそれが近くで起こっていなかった所で数え切れないぐらいに見てきたというのに。

 どっしりとした重さに、肺に取り込んでいる空気ごと全部押しつぶされてしまうのではないだろうか。彼はそんな感覚に襲われた。だが、その肺も中の空気が凍ったせいで、どうも動きがカクカクとしている。

 そういえば昔、肺は水を含むと上手く機能しなくなると言うことを聞いた。なら、凍ってしまったとしたら? うっすらとこの白い世界に横たわる自分が想像できて、体が震えた。

 彼は一つ深呼吸をして落ち着こうとしたのだが、パキッと軽い音がする。

 嫌な音はしたものの、彼は息を大きく吸った。肺は一番膨らんでいる状態だ。だがこの次が困った。ゆっくりと息を吐き出そうとしても、肺が上手く縮こまらない。彼はそっと肺に左手をやった。少し手で押して見るとパキッとまた音がした。だがその音はさっきのよりもずっと大きく、ガラスのコップを床に落としてしまったような音だ。

「あ……」

 それもそのはず。彼の手には凍りついた肺の破片があった。目に見えるようになった肺を覗き込むと、冷凍庫のように霜が降りている。その一つ一つの結晶が、なぜか彼には鮮明に見えた。

 彼は死を覚悟した。真っ白の世界は、決して彼の手に終えるものではない。割れた部分の肺が、チクチクと痛み出した。


 彼の心臟をどきっとさせて、クラクションが鳴った。カリフォルニアにいた時、往来で幾度も聞いてうんざりした鋭く空気を裂く警告音。はーっ、と音を出しながら彼の口から空気が流れ出てきた。

 後続に車がやってきたのだ。バックミラーを除くと、ワイパーが雪を拭った直後、かろうじてシボレーの赤いピックアップトラックが見えた。

 彼は慌ててブレーキペダルから足を退けて車を進めた。まっすぐに道を進む。視界はまだ白かったが、一面真っ白というわけではない。轍は見えるし、近くであればどこに木や建物があるのかが分かる。最初は荒かった息も、だんだんと普段の、無意識に行なっている呼吸に限りなく近づいていく。

 次の曲がり角に車が見えた。真っ白な世界に、ウキのような指標ができた。


 彼は家に帰ると、窓辺を覗いた。窓から見える駐車場には、こんもりとした雪の塊が沢山ある。アパートの他の住人は、当たり前のように休日を家の中で過ごし、こんこんと降る雪などまるでないことのように、家族団欒を楽しんでいたのだろう。

 彼は初めて雪を見るような目で、自分の車が雪に覆われてゆくのを眺めていた。

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