2 ガーディアンガールの淀む心

 チャイムの音が鳴り響き、教師は宿題を言い残して教室を後にする。教室から生徒たちが出て行き、やにわに教室も廊下も騒がしくなる。

 楓は開け放された教室の戸をくぐり廊下に出た。次の授業は選択授業の音楽だ。楓は音楽が好きだったし、選択授業は同級生がバラバラになる。陰口を叩かれることもないため、音楽の授業は学校での数少ない楽しみの一つだった。音楽の教科書にノート、筆記用具と必要なものを揃えて、楓は音楽室へ足を向ける。

 そのとき、異変は起きた。


「きゃああああ!!」


 至近距離で悲鳴が上がり、楓は驚愕して声の上がった方を見た。

 楓の目に入ったのは、楓をまるで化け物を見るかのような視線で見て、慄いて悲鳴を上げる同級生の女子だった。何が起こったかわからず、楓が動けずにいると、悲鳴を上げた女子は近くにいた女子の集まりのところに逃げるように駆けていく。

 楓は、ここで何も見なかったことにして、さっさと音楽室へ向かえばよかったのかもしれない。だが、驚きに体が固まってしまった楓に、そうすることはできなかった。


「やだー! アレに触っちゃった!」

「ちょっとちょっとちょっと! 来ないでよ!」

「やめて! 菌が伝染る!」

「キャー! やだ汚い!」


 楓は言葉を失って、その場で立ち尽くした。

 同級生の女子たちは、傍目に見れば、笑いながら鬼ごっこをしているだけだ。誰の目にもそうとしか見えないだろう。だが、楓はその行動の意味を、痛いほどよく知っていた。


 ――うわあ、お前マジであいつと話してきたのかよ!

 ――きったねー!

 ――来んな! 菌が伝染る!


 中学生の頃、楓は男子たちに「菌」と言われて、まるで汚物のような扱いを受けていた。そして、楓と接触した男子たちは内輪で「菌の伝染し合い」をするのだ。

 今、まさにそれと同じことが、楓の目の前で起こっていた。

 女子たちは時折楓の方を見て、笑う。それは楓をせせら笑うような、邪悪な笑みに見えた。


 また、中学校のときと同じ目に遭うのか。自分はまた、同じ痛みを繰り返さなければならないのか。


(――どうして? 私、あなたたちに何かした?)


 楓は何も言えず、その場から動くこともできなかった。





「――射程拡張エクステンション

 白い刃が風を切り、ナイトメアの群れを一刀両断する。黒い煙が辺りを満たして、ナイトメアは一気に消滅する。

 お~、と譲葉が声を上げた。楓は全てのナイトメアが消し飛んだのをしっかりと確認してから、剣をそっと下ろした。

「やるじゃない、一気に結構な量を殲滅しても変身も解けないし! いい感じよ」

 上機嫌に楓を褒めるライチ。だが、楓は学校でのことがあったせいか、どこか虚ろな心持ちで、何も答えずに剣をしまった。

 ちょっと、私がせっかく褒めてるのに何よ、と喚きだしたライチを狙いすまして棗が握りつぶそうとする。しかし、ライチも最近では棗の動きを読めるようになってきたようで、慌てて伸びてくる手を躱した。しばらく棗とライチの攻防が繰り広げられたのち、やがて棗が飽きて、二人は争い合うのをやめた。

「とにかく、今日はこれでおしまいよ」

 すっかり棗のペースに巻き込まれているのが不服だという顔をして、ライチは言った。

 譲葉が楓の袖をつまんで引く。

「それじゃでんでん~、帰ろっかあ」

「あ、うん……」

 三人は、今日もたまり場に帰っていく。





 楓が教室に向かおうと廊下を歩いていた時、またしても同級生の女子がわざとらしく楓を避けた。それを合図にしたかのように、数人の女子が悲鳴をあげながら、蜘蛛の子を散らすように教室に逃げていく。

 楓は無視しようと思った。相手にするだけ時間の無駄だ。こういうのは相手にすればするほどつけあがるのだ。中学校のときの二の舞になど、絶対になってやるものか。

 教室に入り、席についてしばらくすると後方から「来た来た来た」「あんた触って来たでしょ近寄るな」「ばっちぃ」「ひどーい」と小声で、だが明らかに楓に聞こえるように囁く声が耳に入ってくる。楓は教科書を取り出して空になったスクールバッグをロッカーに置きに行くついでに、ちらりと視線を上げた。4人の女子が楓を見ながら、くすくすと笑い合っている。

 楓はその中の一人に見覚えがあった。黒髪を肩まで伸ばし、前髪をパープルのヘアクリップできっちり整えた、清楚で利発そうな女子。彼女はクラス委員だ。いつも、その明るさでクラスをまとめる姿を見てきた。

 だが、楓が今視線に捉えた彼女は、愛嬌たっぷりないつものクラス委員の姿をしていなかった。楓を冷たい目で見下ろしながら、嘲るような笑みを浮かべている。

 ロッカーにスクールバッグをしまい込みながら、楓は拳を握りしめた。自分が標的になっていることもそうだが、教室のまとめ役が、陰で卑劣な嫌がらせをしているという現実が楓には耐え難かった。

 クラス委員が、こんなことでいいの?

 唇を噛み締めたまま、席に戻ると、また聞こえよがしにひそひそと囁く声がする。


「赤見内さん、なんかこっち睨んでなかった?」

「ウチらただ鬼ごっこしてただけなのにね」

「なんか文句でもあるのかな?」


 わざとらしくそう言ってくすくすと笑い合う声が、楓の頭の中でいつまでも響き合い、不協和音を鳴らしていた。





射程拡張エクステンション!」

 楓の剣先から光の束レーザービームが射出され、貫かれたナイトメアたちが一斉に煙を噴き出して霧散していく。

 楓は順調に自らの特殊能力オリジナルアビリティである「射程拡張エクステンション」を使いこなしつつあった。楓の技の精度、力の入れ方のバランス、そして譲葉や棗との連携が少しずつ整えられていく確かな手応えに、ライチは満足気に微笑む。

 棗が明るくも、羨ましそうな声を上げた。

「でんでんすげーなあ! あたしもこのくらい一掃できたらスカッとするのになー!」

「一体一体のナイトメアを倒す確実性は、素早く動けるめーちゃんの方がずっと上だよ」

 黒い煙が晴れゆく中、棗の褒め言葉に、楓も棗を称賛することで返す。

 楓は笑っていた。

 大丈夫だ、みんなと一緒にいれば私は平気。辛いことなんか、何もない。

 うすらとした雲に覆われて、星は見えない。





 それは、移動教室から戻ってきて、次の授業の教科書を出そうと机に手を入れた瞬間だった。

「……ッ!?」

 べとり、と手についた不快な感覚。

 机の中に入っていたものは、べたべたした液体を染み込ませて、丸めたティッシュだった。楓はぞっとした。指先が震える。丸めたティッシュが二つ、三つ、四つ――。べとつく液体が指の間で糸を引く。つんと鼻をつくシンナーの臭い。――除光液だ。

 どうして、こんなことができる。

 楓は震える手で自分のポケットティッシュを取り出して、指を拭く。それから、べたついた教科書と、机の中も、丁寧に。

 教室中がシンナーの臭いであふれてあらぬ疑いをかけられるのが怖くて、楓は詰め込まれたティッシュを机から出すことができなかった。教室のゴミ箱に捨てる所を見られるのも恐ろしくて、家に持ち帰って捨てようと思った。

 教師に相談するという選択肢は、余裕をなくした楓の頭の中からはすっかり消え失せていた。


「ウケる。ざまあないよね」


 後ろから、クラス委員が囁くのが聞こえた。


(――あの人、なんなの……)

 体中が、氷漬けにされるような感じに囚われた。





「ナイトメアみっけ」

 夜の闇に紛れて蠢く黒い影は、ゆっくりと翼を広げて飛び上がる。

「一体なら余裕だね、すぐにあたしが……」

 棗がそう言うか言わないか。既にナイトメアは黒い煙を吐き出して散っていた。

 楓が斬り捨てたのだ。

「ひゅ~、でんでんやる~」

 口笛が吹けない譲葉が、口頭で口笛を鳴らす素振りをする。

「今日は気合入ってるわね」

 楓は譲葉とハイタッチを交わし、ライチの言葉にそうでもないよ、と返す。棗が面白そうに言った。

「でも珍しいじゃん、でんでんが単騎で切り込むなんて」

「いつもめーちゃんにばっかり切り込み隊長させちゃってるから、悪いかなって思って」

 楓はそう言って頬をかく。

「でんでんかっこいいぞ~」

 譲葉がすり寄ってくるので、楓は思わず笑った。

 大丈夫、大丈夫だ。まだ、譲葉と棗の前でなら、笑顔でいられる。

 重たい雲が垂れ込めている。





 その日、楓はうっかり携帯電話スマートフォンをスカートのポケットに入れたまま、一時間目の体育の授業に行こうとしてしまった。

 風ヶ原第一高校において、携帯電話の類は持つことこそ許可されているものの、授業中は電源を切った上で鞄にしまい、ロッカーに収納しておかなければいけないことになっている。決まりを守らず、自分の席に持ち込んでいる生徒もいるにはいるが。

 楓は着替えてから体育教師のところへ行き、ありのままを話した。その場で携帯電話スマートフォンを没収されると思っていたのだが、体育教師は授業に少し遅れてもいいから、教室に携帯電話それを置いてくるようにと優しく言った。

 そして、教室に戻ってきた時に――見てしまった。

 体育の授業をサボったのだろうか、制服姿のクラス委員と、いつもの女子たち。甲高い声で笑い合いながら、何かを思い切り振り回している。


 それは、楓の弁当箱だった。


 楓は爪が手のひらに食い込んで痛みを感じるほどに、強く拳を握った。私のお父さんが、いつも苦労ばかりかけているお父さんが、大切に大切に毎日作ってくれるお弁当に、なんて仕打ち。絶対に許せない。今すぐ、今すぐにでもあの女子たちを殴り飛ばして、顔がわからなくなるくらいめちゃくちゃにしてやりたい。だが、だが。楓はそうはしなかった。こんな罰当たりな事をする輩には、当然の報いを受けてもらわなければいけない。幸い今、楓の懐には携帯電話カメラがある。楓はぶるぶると身震いしながら、携帯電話スマートフォンのカメラアプリを起動して、カメラを構えて、その現場を――


 録画しようとしたところで、携帯電話スマートフォンを教師に奪われた。


 生徒指導の教師は抵抗する楓を職員室に連行し、真面目な君がルールを破ったのは残念だ、と言い放った。楓は言いたいことのひとつも言わせてもらえず、無情に携帯電話スマートフォンを没収され、さっさと授業に行きなさいと撥ね付けられた。


 その日の昼休み。

 楓はトイレの個室の中で、そっと弁当を開けた。

 ぐちゃぐちゃになった弁当を、誰にも見られたくなかった。


「……お父さん、ごめんなさい……、ごめんなさい……ッ……」


 楓は涙をこぼしながら、弁当をそのままトイレの個室の中で食べた。悲嘆、苦悶、憤怒。様々な感情が弁当箱の中身と同じようにごちゃまぜになっていた。

 おかずがめちゃくちゃに混じり合っていても、紫苑の作ってくれた弁当は美味しくて、涙が止まらなかった。





瞬間加速アクセラレイターッ!」

 加速した棗の槍が、ナイトメアの土手っ腹に風穴を開けた。楓も目の前のナイトメアを叩き斬る。

「……人が倒れてる~!」

 譲葉がそう声を上げたのを聞き、楓たちは水たまりを蹴って譲葉のもとに急行した。ナイトメア数体が倒れる少女を取り囲んでいた。


 倒れる少女を見て、楓は息を呑んだ。

 黒い髪。前髪を留めるパープルのヘアクリップ。

「あの制服、一高の生徒じゃね!?」


 ナイトメアに囲まれて倒れているのは、クラス委員だった。


 楓は握りしめた剣に力を込めた。自分が今、何を考えているのかよくわからない。そうだ、ナイトメアを、ナイトメアを倒さなくちゃ。でも、もしこのままにしていたら? 彼女はナイトメアに襲われて、最悪命の危機に晒されることになる。そんなことはあってはならない。早く、ナイトメアを倒さなければ。彼女が危ない。


 ――クラス委員が、こんなことでいいの?

 ――あの人、なんなの?

 ――お父さんが、大切に大切に毎日作ってくれるお弁当に、なんて仕打ち。絶対に許せない。


 ――あの人が、いなければ――



 譲葉がナイトメアを縛り付け、身動きの取れなくなったナイトメアを棗が串刺しにする。倒れる少女を取り囲むナイトメアは全て消え失せた。

 ライチの「今日はここまでね」という言葉に、譲葉と棗が武器をしまう。

 背伸びをする譲葉と、その空いた脇をくすぐり、驚いた譲葉に腕でなぎ倒される棗。

 だが、楓は。


「はあ、はあ、はあ……」


 楓は武器を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。息が苦しい。胸が痛い。耳鳴りがする。体が思うように動かない。自分じゃない自分が体を支配しているみたいだ。

 今、自分の手にあるものは何か?


「でんでん~……?」

 譲葉が楓を呼ぶ。その声も、楓の耳には届かない。


 今、この手にあるものは――剣だ。


 楓は剣を手に、倒れ伏したクラス委員に一歩一歩近づく。そしてその鼻先に、ゆっくりと剣先を向けた。


「でんでん、今日はもう終わりだってさー。帰ろーよ」

「ちょっと楓、人に見つかる前にさっさと戻るわよ」

 棗とライチの声も、もう聞こえない。


 楓はゆっくりと、剣を持ち上げる。


「――でんでん!!」

 譲葉が叫ぶ。

「ちょっとアンタ、何――」



「ああああああああああッ……!!」



 楓は持ち上げた剣を、思い切り振り下ろした。



「楓!!」




 楓の剣は、クラス委員の首筋に触れるギリギリのところで、ぴたりと止まった。


「……でんでん、ちょっと……」

 棗が狼狽えて声を出す。譲葉も、何が起こったのかわからず、言葉を探している。


「はあっ、はあっ、はあっ……」


 楓の頬は涙に濡れていた。それは、あとからあとから溢れて止まらない。

 がらん、と音がして、楓の剣が地に転がり、やがて光に包まれてアミュレットの姿に戻る。


「――でんでん!!」


 楓は気を失ってその場に倒れ込む。青ざめた頬を大粒の雨が何度も何度も叩いた。

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