第295話 動乱の元凶
――ドドドドドッ、パカラッ、パカラッ……ヒヒィィィン
とは言え、絶え間なく駆け込んでくる伝令騎兵は、一切渋滞する事無く門の中へと吸い込まれて行くし、時折進発する重装歩兵の規則正しい動きを見る限り、マロネイア軍が驚くほど良く統制されている事が分かろうと言うものだ。
そんなマロネイア家、敷地内にある宮殿前広場。
そこでは数多くの兵士達が隊列を整え、進発の命令が下るのを待っている様だ。
「伝令、
「伝令、
「伝令、
さして代わり映えしない報告の中に、時折混じる不快なセリフ。
「チッ、何をやっておるのだ。たかだか数百の守衛が何故抜けぬ。アッピアノス将軍は
宮殿前に
「はっはっは、アゲロス様。そう申されますな。いつもの事で御座いましょう。恐らく
そう返事をするのは、アゲロスの座る椅子の横に直立し、白銀の鎧に身を包むサロスである。
更にその反対側には、サロスをも凌駕する偉丈夫であるタロスが、サロスとお揃いの鎧を着て控えていた。
「ふん、面倒な事を。アッピアノス将軍に伝えよ。余計な気を遣わぬとも、さっさと城を落としてしまえとな」
「はっ!」
アゲロスの背後に控える伝令の一人が一礼すると、そのまま風の様に走り去って行く。
「アッピアノス将軍めぇ、本当に面倒なヤツだ。早ようせねば神殿騎士団が駆けつけて来るやもしれんのに。……えぇい、本当に面倒なヤツだ」
そう言いながらも笑みのこぼれるアゲロス。
元々当初の予定では、エレトリア本城の制圧には、もっと時間が掛かると予想していた所なのである。
何しろ、エレトリア侯爵率いるは、精鋭の
その一部が交代や東宮防衛の為に不在だとしても、元々の守衛兵を合わせると一千を超える戦闘兵がエレトリア城には詰めている事になる。
対して、アゲロスが今回動員した兵数は、常設一個軍団六千に加え、傭兵で構成された一個連隊一千二百の、合計七千二百。
一見、圧倒的に有利な様にも見受けられるが、その実、各外壁での街道封鎖や、エレトリア市街の治安維持。更には神殿騎士団や、東宮、及びエレトリア侯爵の本当の
これを多いと見るか、少ないと見るか。
ちなみに、エレトリア本城を取り囲むのは、アッピアノス将軍率いる二個連隊、その数二千四百であった。
「伝令、
流石のアゲロスもこの報告を聞いて、一瞬の内に笑顔が吹き飛んだ。
「サロス。これはマズい。妃を死なせたのは非常にマズいぞ。プレシア辺境伯とは外交問題に発展するやもしれん。……ぐぬぬぬぬ。あのぉホレ、何と言ったか。筆頭侍女の……」
「あぁ、確かマーサとか言う……」
「それそれ、それじゃ、その女じゃ。あヤツめぇ……やってくれおったわい。イリニからは注意する様にと言われておったのじゃが……」
とそこで、広場の方から何やらざわめきが。
「どうした? 何事じゃ」
「はっ、エレトリア城の方から煙が上がっております」
「何っ!? あれほど燃やすなと言っておったにぃ。アッピアノスめぇ、何をしておる。それとも敵が火を放ったのか?」
「いいえ、煙の様子からしますと城塔より立ち昇っておりますので、恐らく
「なに?
アゲロスはそのままターフの外へ急ぎ走り出ると、エレトリア城方面の空を見上げた。
するとそこには、初夏の抜ける様な青空に立ち昇る灰色の
彼はその煙を、ただ恨めしそうに睨みつける事しか出来なかった。
◆◇◆◇◆◇
「エレトリア卿、ご決断を」
――ズゥゥン……ズゥゥン
恐らく敵が
あんな
敵は恐ろしい程に綿密な計画を立てているに違い無い。
「
青年の前に平伏する老齢の男。
頭部は既に禿げあがり、胸先まで伸びる白く豊かな
彼の羽織る絹のトガにはエレトリアの紋章が大きく刺繍されており、その位の高さを如実に物語っていた。
「宰相、
日頃より
にもかかわらず、
やはりそこは夫婦であったか……と感心する一方、彼の性格を考慮すると、単に話題をはぐらかしているだけの様にも思えて来る。
「エレトリア卿……クリスティアナ様は東の高台にある
「なんとっ!」
宰相自身、かなり早い段階でその情報を得てはいたのだが、
「エレトリア卿……」
再び決断を迫ろうとする
もう時間がない。
降伏するのであれば今しか無いのだ。
敵に正門を破られ一度乱戦が始まれば、敵味方の血潮を浴びて、狂乱状態となった兵士達を制止する事など出来ようはずも無い。
マロネイア側とて同じエレトリアの民である。
同胞を討ち取りたいなどと思っているはずは無い。
敵の望みは恐らく……侯爵の命。
ただ、その一点であろう。
はたまた、この青年が籠城の上、討ち死にを選択したとしよう。
老い先短い
確かに、前途ある
ただ、そこにはエレトリア侯爵を
その大義名分は兵士達の
兵士達はその
となれば、やはり最後に一言。
エレトリア侯爵本人からの、“奮戦せよ!”との下知が絶対に必要なのだ。
どちらを選択するにせよ、決めるのは
「なぜ……なぜ、
「事……ここに及んでは、是非もございませぬ」
心底あきれ果てた。
自身の兵士達が次々に打たれているこの状況で、敵方の総大将を未だ“
もちろん、本当の
先代のエレトリア侯爵逝去の際、アゲロス伯爵が青年に対して話した言葉。
『……お父上様を亡くし、ヴァシレイオス様もたいそう心細かろう……私の事は近くに住む
完璧な社交辞令。
あまりにも見え透いたマロネイア伯爵の手口に、思わず眉をしかめた事が今更ながらに思い出される。
所詮、
いや、たとえ青年が侯爵の器で無くとも、そんな彼を支え、領国を発展させて行く。
それこそが宰相の務めであったはず。
ここへ来て、溢れ出す後悔の念が
「宰相……今から……今から逃げる事は……出来ぬ……か?」
「既に抜け道はすべて塞がれており、城内に残る守兵もごく僅か。ご決断の時でございます」
宰相はゆっくりと青年に近付きつつ、トガの下に隠し持ったナイフの柄へと手を掛けた。
「うっ……うぅぅ、宰相よ……」
「なんで御座いましょう。ヴァシレイオス様……」
「しっ……死にたく……無い……」
両目を真っ赤に腫らし、大粒の涙をこぼす青年。
十八歳。
この世界では十分大人として認識される年齢である。
ただ、彼は
両目を閉じ、その想いを噛みしめる
何か、何か他に
いや……無い。
これだけ用意周到な敵である。逃げ道などあろうはずが無い。
兵士達の命を救う為には、もう、
宰相は二度、三度と首を振る事で、自身の中に残った“弱き心”を無理やり振り払うと、再び青年の真っ赤になった両目を見据えた。
「ヴァシレイオス様……御免っ!」
――ズブッ……ズブッ……
研ぎ澄まされた剣が人肉にゆっくりと吸い込まれて行く。
剣の突き立った胸元では、止めどなく
――ズブズブッ……
「……カハッ!」
大量の
やがて剣は彼の背中へと到達。
肺を損傷した事により、逆流した血液が、彼の口からも溢れ出したのであろう。
「緊急、緊急っ! 失礼致しますっ!」
入り口の方から大音声で叫ぶ伝令の声が聞こえる。
既に戦時である。
入り口のドアは開け放たれており、伝令兵は誰にも静止される事無く、入り口付近で
「くっ……」
一瞬ではあるが、室内の
ただ、彼もベテランである。
僅かな
「侯爵閣下、敵方使者が参りました。アゲロス卿より伝言。早急に動乱の根本を正し、武装を解除せよ。さすれば当方に継戦の意思なし。繰り返します。早急に動乱の根本を正し、武装を解除せよ。さすれば当方に継戦の意思なしっ!」
伝令による言葉の余韻が消え去った後、恐ろしいまでの静寂が訪れる。
そして、そんな静けさを汚すのは。
――ズルズルズル……ドサッ……
力無く横たわる男の死体。
「たった今、動乱の根本を
「はっ! 直ちにっ」
即答の
部屋に残されたのは、血塗られた黄金の宝剣を手に屹立する
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