第300話 私たちも短期留学希望(前編)

 北陸の冬は寒く厳しい。


 気温だけを比較すれば、更に寒い地域は他にいくらでもある。


 ただ、吹きすさぶ北西の風と、重く垂れこめた雪雲。


 そんな寒さだけでは語れない、一種独特な閉塞感。


 それこそが、訪れる人々に北陸の冬をより厳しく感じさせる原因の一つなのかもしれない。


 そんな冬の最中さなか


 当人の運さえ良ければ、本当の小春日和こはるびよりと言うものに出会える事もある。


 外出する際には厚手のコートが手放せないこの時期。


 その日だけはシャツの袖をまくりたくなる程の暖かさに包まれるのだ。


 そんな小春日和こはるびよりと言うべき、穏やかに晴れた正午過ぎ。


 北陸の屋敷にありがちな、広々とした玄関先に停車する一台のタクシー。


 そこから降りて来たのは、大学生ぐらいの若者三人組だ。


  

「あぁ! おい様ぁ、お久しぶりですぅ」



 その中の一人。


 深紅のコートに純白のファー。


 ファッション雑誌から抜け出て来た様ないで立ちの女性は、自分の荷物スーツケースを運転手から受け取りもせず、出迎えに来ていた老人に向かって大きく手を振りながら駆け寄って行った。



「ホッホッホ。よう来た、よう来たぁ。何年ぶりかのぉ、うんうん」


 

 老人は駆け寄って来た女性を大きく広げた両手でしっかり抱きとめると、優しくハグをしながら笑顔で頷いている。


 彼女も老人との再会がよほど嬉しかったのだろう。


 同じく嬉しそうに笑いながらハグを返している様だ。



「いやぁだぁ、おじい様ったら。おいとましてから、まだ一週間も経ってませんよ?」



「ホーッホッホッ。そうかそうか。じじィになると、時間の感覚がみじこぅなってなぁ。特に、こんなに可愛いに会えぬとなれば、一日千秋いちじつせんしゅうの想いじゃわい」



「もぉぉ、やだわぁ、おい様ったらぁ。うふふふっ」



「ホッホッホッホォ」



 そんな、ほのぼのとした再会を喜び合う二人……のはずが。



 ――ギュウゥゥゥム



てててててっ!」


「美紗ちゃん、痛いっ、痛いぞぉ。ハグと言うものは、もそっと優しくせんとのぉ。でなければ、これはもうベアハッグじゃ。全盛期の“坂口”かと見まごうばかりのベアハッグになってしもうとるぞいっ!」



 “坂口”って……。例えが古いよ、おじいちゃん。


 まぁ、おじいちゃんだから仕方無いか。



「そうですわねぇ。そう言う事であれば、まずは私のから、その手を離して頂かないとねぇ。うふふふっ」



 美紗ちゃん、美紗ちゃん。“うふふふ”じゃないよ、美紗ちゃん。



「そっ、そうじゃの。いやいやいや、ついうっかりしてしもうた」


「いやいや、ホレ、この通り、じじィは身長が小さいでのぉ。ハグをすると、どうしても手がの辺りになってしまうんじゃ。仕方が無いのぉ。歳は取りたく無いのぉ」



「いえいえ、おい様。言っておきますけど、私もそんなに身長大きくありませんからね。それに、普通のハグだけならまだしも、尻全体をでまわす必要は無いでしょぉ?」



 ――ギュム、ギュゥゥム



「あ痛たたたたっ、美紗ちゃん、強い、強いのぉ。ワシは、もそっとソフトな愛撫あいぶが好みじゃぞ?」



 愛撫あいぶって、おじいちゃん。昼間っから何言い出すの?



「いえいえ、おじい様、私は愛撫あいぶをしてはおりませんよ。私は単に、ベアハッグにより力を加えているだけですよ? まぁ、そんな事より、私の胸でほおずりするのも止めていただけませんか?」



 美紗ちゃん、美紗ちゃん。完全にベアハッグって言ってるよね。それって、確信犯って事だよね。



「いやいや、美紗ちゃんが気に病む事は無いぞぉ。うむうむ。ワシは意外とこう言う、“ちっぱい”のも好みなのじゃ。何しろ、ダニーにしろ、アルにしろ、みんな爆乳ばっかりだからのぉ。爆乳には爆乳の楽しみもあるにはあるが、貧乳には貧乳のまた楽しみと言うか、何と言うかのぉ。……ふぅぅむ。……わびさびってヤツぅ?」



 ――グリッ!



「誰が貧乳じゃコラ?」



いたっ! マジ痛い。美紗ちゃん、マジ痛いわっ! それに、こわっ、急にこわっ! って言うか、グーでコメカミをグリグリしてはダメじゃ。コメカミは急所じゃ。マジ即死もんじゃ、急所は流石に外さんとのぉ、ワシなんてであの世にってしまうぞぉ」



「いえいえ、全能神様と呼ばれている御方が、いったいどちらにかれると言うのですか? 来週からのおあ様と、マイアミクルーズにお出かけなんでしょ?」



 ――グリグリグリッ!



「あ痛たたたたっ、美紗ちゃん、本気で痛い、ギブ、ギブじゃ!」



 老人はそう言いながら美紗の肩を三回タップ。


 ようやく彼女もその力を抜いた様だ。



「ふぅぅ……ヤバかったのぉ。しかし、末恐ろしい娘じゃわい。嫁にもらった後は、慶太のヤツ完全に尻に敷かれそうじゃのぉ……」



「え? がどうかしましたか?」



 に関しては、とにかく耳聡みみざとい美紗ちゃん。



「いやいやいや、こっちの話じゃ。しかし、そうじゃったのぉ。この後、暫く留守にするが、慶太の事はよろしく頼んだぞぉ」



「はい、おじい様」



「うむうむ。美紗ちゃんは本当に可愛いのぉ。はよぅ、の顔が見たいのぉ。……ん? ところで、その後ろに居る若者達は?」



 ようやくここで、美紗の後ろで所在無しょざいなげに愛想笑いしている二人に気付いた様だ。



「はい。今回一緒にお邪魔する予定の、慶太くんのお友達です」



 そんな美紗の紹介により、一人の青年が前へと進み出て来る。



「あぁっ、えっとぉ、飯田正義まさよしと申します。正義せいぎと書いて、“まさよし”と読みまして、実はこの名前なんですけど、ボクの曽祖父が……え?」



「うんうん、良いのぉ。張りのある大腿筋と言うのも、それはそれでフレッシュで良いものじゃのぉ。なんと言うかのぉ、躍動感があると言うか、初々しいと言うかのぉ、うんうん……」



 たったいままで正義せいぎの前にいたはずの老人が、いつのまにやらソフトジーンズを履いた真琴の足に頰擦ほおずりしているでは無いか。



「ねぇ、美紗ぁ……このお爺さん、一回殴っといた方が良いんじゃないの?」



「駄目ダメ駄目、真琴が本気で殴ったら一発でアウトよ。慶太くんのおい様なんだから、ちょっとは受け入れてあげてよぉ。別に減るモンでも無いでしょ? まぁ、宿泊費のかわりって事で。ねっ!」



 何気に無茶苦茶な事を言い始める美紗ちゃん。


 ただ、真琴ちゃんの方は未だ納得が行かないご様子で。



「うぅぅん。でもやっぱり我慢できないから、一発行っとくわ」



 言うが早いか老人の後頭部めがけ、スナップの利いた真琴ちゃんの平手が飛んだ。


 とりあえず“グー”で殴っていない所を見ると、のある攻撃とも言えるのだが?



 ――ブオン!



「あっ、あれ?」



 しかし、会心の一撃と思われた真琴ちゃんの平手は、無情にも空を切る事に。



「ホッホッホ。娘さん、良い動きをするのぉ。どうじゃ、ワシの家のメイドにならんか? なんだったら、そのままワシの所でしてもらっても構わんぞ?」



「おじいちゃん、そこは、メイドじゃ無くって、ボクシングで世界を目指さないか? ってボケる場面でしょ?」



 老人に対してろとは……。真琴ちゃんのツッコミ指南も大概たいがいである。



「なんじゃ、不満か? おぉそうか。条件を話しておらなんだのぉ。どうじゃ、三食昼寝付きで、毎月帝国金貨一枚。どうじゃ、破格の扱いじゃぞぉ。ん? 帝国金貨がいくらぐらいかって? そうじゃのぉ、日本円で大体十万円ぐらいじゃのぉ。ただ、向こうは物価がめちゃめちゃ安いから、十万円もあれば、十分遊んで暮らせるぞぉ」



「ねぇ、美紗ぁ、慶太のおじいちゃんったら、白昼堂々、私としようって言ってるけど?」



「うぅぅむ、帝国金貨一枚ではダメか? それでは、専用の館も付けるぞ? どうじゃ? それなら文句はあるまい?」



「もぉ! 完全にエロじじィじゃん。慶太のおじいちゃんだからって、今度は手加減無しですからねっ。本気で殴りますよぉ!」



 そう言いながら、あきれた様子で右の拳を大きく振りかぶる真琴ちゃん。



「ホッホッホ。いやいや、エロは重要じゃぞぉ。ほれ、こうやって初めての人とも、直ぐに打ち解ける事が出来るからのぉ。よしよし、二人とも良い娘じゃ。ワシの世界に招いてやろう。存分に楽しんで行くが良いぞぉ」



 すっかりご機嫌の老人全能神は、早速娘二人の手を引いて屋敷の中へ入って行こうとするのだが。



「おっ、お爺さん、僕も居るんですけど……」



 と、困惑しているのは正義せいぎである。


 最初っから完全に無視されてしまい、会話にも参加できず立場が無い。



「ん? お前かぁ。ふぅぅぅむ」



 老人は正義せいぎの前まで足を運ぶと、いぶかし気に顔を覗き込んで来た。



「え? 何なに? ボクもハグした方が……?」



「いやいや、結構じゃ。男とハグする趣味は持ち合わせておらんからのぉ……。うぅぅむ。ちょっと手を見せてもらおうか」



「はっ、はぁ……」



 おどおどと、右手を差し出す正義せいぎ



「うぅぅむ……。おヌシ、数代前の先祖に、北陸の人間は居るか?」



「北陸……ですか?」



「うむ。あぁ、いやいや。余計な事を聞いた。おヌシが知るよしも無いからのぉ……。まぁ、良いじゃろ。お前もやろう」



 老人全能神は急に興味を失ったとでも言わんばかりに、正義の手を放り出してしまった。


 ちょうどその時、一人の女性が屋敷の中から出て来た様だ。


 黒を基調としたゴシックロリータのメイド服に身を包むその女性。


 光の加減だろうか。シルバーに近いブロンドの髪にグレーの瞳。


 無表情な上に刺す様な冷たい視線を持つ彼女は、そのアンバランスなファッションとも相まって、一度でも見かけたら目が離せなくなる程の魅惑的な美貌の持ち主である。


 そして、老人の前で一度カーテシーの様な挨拶をすると、うなずく老人に向かって何やら英語で話しかけている様だ。



『失礼致します、レオニダス様。先ほどご指示頂きましたダモン殿との連絡の件、いまだ確認が取れないとの事で、侍女数名に様子を見に行かせました』



「そうか。どうせ彼奴きゃつの事じゃ。また飲んだくれて前後不覚に眠っておるのであろう。ただ、サクラとも連絡が取れんのはおかしいのぉ。大司教代理には早めに確認する様にと伝えておいてくれ」



『承知致しましてございます』



 とそこで、彼女が若者達への方へと視線を向けた。



『そう言えば、レオニダス様。彼らにもが必要なのでは?』



「うむ、そうじゃのぉ……美紗ちゃんには、元々太陽神の洗礼を与えてある。何しろワシのとなる娘じゃからのぉ。あとは真琴ちゃんと、このくんじゃが……うぅぅむ」



「あのぉ、おじいさん。ちなみにボクはじゃなくて……」



 とりあえず自分の名前の間違いを指摘しようとする正義せいぎ


 しかし……。



「まぁ、ゼノン神のままで良かろう」



 老人はガッツリ無視する構えだ。



『ゼノン神……で御座いますか?』



 老人の言葉に“意外”とでも言いたげな表情を見せるその女性メイド


 日本語で話す老人全能神とはどうやら会話が成立している事から、日本語のヒアリング自体は出来ているのだろう。


 そんな老人全能神女性メイドの会話を不安げに眺める正義と真琴。


 そんな二人に代わって、美紗が声を掛けてくれた様だ。



「ねぇ、おい様。何か問題があるの? 洗礼って?」



「あぁ、いやいや、全然大した事では無いのじゃ。まぁ、洗礼を受けておかねば、向こうで病気になった時なんかに困るからのぉ。例えて言うなら、予防接種の様なものじゃと思うておけば良い」



「……ふぅん」



 そう言いながら頷き合う若者たち。


 なんとなくその理由を理解したと言う所だろうか。



「ただ、美紗ちゃん以外の二人は、洗礼する神が異なると言う事じゃ。どの神だろうと、洗礼を受けてさえおれば大差は無いのじゃが。まぁ、そのまま向こうの世界に移住する訳でも無いからのぉ。特に困る事は無いと思うが。わざわざ改宗するのも難儀じゃし……」



「はぁ、何か色々と大変なのでしょうか?」



 少し困った様な表情を浮かべる老人に対し、正義が更に問いかける。



「いや、大変な事は無いのじゃが……。まぁ、でも良かろう。キミ達が気にする事では無い」



「はぁ、それであれば……」



「クロエよ。洗礼の準備は不要じゃ。このままエレトリアの方へと渡ってもらう。この三名の事はお前に任せた。良いな、くれぐれも粗相の無い様に」



『承知いたしました』



 クロエと呼ばれた女性メイドは、老人へと向かって深々と頭を下げた。


 満足そうにうなず老人全能神


 更に今度は、何か別の用件を思い出したのだろう。


 老人全能神は振り向きざまに青年を手招きすると、やおら耳打ちを始めたではないか。



「時にくん」



「あぁ、いや、だからじゃなくってボクは正義……」



くんに大事な事を伝えておこう」



 全く聞く耳を持たない。


 まぁ、老人とはすべからくそう言うものなのだが。



「おヌシ……真琴ちゃんと時は、ちゃんとをせんとダメじゃぞぉ」



 突然何を言い出す? このじじィ。



「慶太のお爺ちゃん、急にいったい何を……」



 そりゃそうだろう。だって、そうだろう。



「まぁ、単にしただけかもしれんからのぉ、あまり細かく言うつもりは無いが、ワシみたいに甲斐性のある男になるまでは、責任を持った行動が必要じゃぞ? 分かったな?」



「は……はぁぁぁ」



「うむ。分かればよろしい……ホーッホッホッホ」



 その老人全能神は、これまでに無い程の高笑いを残し、娘二人の手を取りながら屋敷の中へと入って行ってしまった。

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