第286話 戦後交渉
「エルヴァインよ、後は任せた」
その青年は、草原の民が好む
「まぁ待て、フレルバータル。まだ話は終わっておらんぞ」
玉座とおぼしき大きな椅子に腰かける男。
彼より声を掛けられ、青年は面倒くさそうに振り返る。
「俺はお前との約束を果たした。もう、俺に用は無かろう?」
「いやいや、そう言う訳にも行かぬぞ、フレルバータル。これより戦後の交渉を行わねばならぬのだ。賠償や領地の割譲など、取り決めねばならぬ事は多いのだからな」
青年の素っ気ない態度に、エルヴァインは少々困惑ぎみの様子だ。
「だいたい、俺は草原の民だ。領地などもらっても何の得にもならん。その辺りの交渉は全てお前の好きな様にすれば良いさ」
「なんだフレルバータル、やけに遠慮深いな。お前だって引き連れた兵士達に恩賞の一つも取らせねばならんだろう?」
当然の如く問いかけるエルヴァインに対し、フレルバータルは大きく手を広げて見せた。
「俺達が欲しいものは既に奪った。小麦に銀……、俺達では持ちきれない程のものがこの城の蔵の中では
フレルバータルは目の前の老人に対して、侮蔑の視線を投げかける。
いまさら命乞いとは……。
味方である帝国軍を土壇場で裏切り、あまつさえ自分の兵をもって僚軍の後背を突くなど、正気の沙汰では無い。
見ているだけでも吐き気を
「
彼はそれだけを言い残すと、無駄に豪奢な
不機嫌な面持ちで、大理石で造られた廊下を足早に歩くフレルバータル。
彼自身、なぜこんなにも機嫌が悪いのか……その理由が見つけられない。
確かに、あの老人の事が原因の一つであるのは間違い無い。
ただ、そうは言ってもあの老人に対し、高圧的に裏切りを強要したのは、他ならぬフレルバータル彼自身であった。
会戦の直前。
彼は周辺の豪族を攻略した際、辺境警備を担当するリヴィディア兵から、鎧や兜など、正規軍の兵装を手に入れ、それを別動隊に着用させる事で、辺境警備隊に偽装させていたのである。
その後、偽装した別働隊は援軍を名乗る事で、まんまとリヴィディア城へ侵入。
電撃的に宮殿を占拠し、この老人を捕らえてしまったのだ。
報告によればこの老人。己が保身の為に、あっさりと裏切りを承諾したらしい。
フレルバータルとしては、抵抗するであろうリヴィディア伯は殺害し、宮殿内にある予備の兵装を奪う事で、リヴィディア正規軍に成りすますつもりであった。
つまり、裏切りへの誘導は、あわよくば的な意味合いしか無かったのである。
「まさか、本当に裏切るとはな……。いや、それだけでは無いな。何か嫌な予感がする……」
彼はそう独り言ちると、自身の寝室として選んだ部屋のドアを開けた。
普段であれば一人寝などありえ無い。
彼の
そんな彼の部屋は、今日に限って妙な静けさに包まれていた。
「
薄明りの灯る部屋の中央。
まるで
「ほぉ……。これは、西方で用いられていると言う魔道の
フレルバータルは部屋の中へは入らず、瞳だけを動かして左右の通路を確認する。
確かに通路の角々に配置されているはずの兵士たち。その姿が一切見当たらないのだ。
既に眠らされているのか、それとも……。
「滅相もございません。これから交渉すべき相手のお仲間でございます。そんな方々を手にかけるなど」
「そうか。お前の目的は交渉か」
「はい。交渉でございます」
フレルバータルは納得した様に数回頷いた後、ゆっくり部屋の中へと進んで行く。
「おい、お前の目的は交渉なのだろう。そんな所につっ立っていないで、こちらに来て座ればよい」
「はい、承知致しました。それでは失礼致します」
その人物は滑る様に部屋の中央へ移動すると、長椅子の端へと遠慮がちに腰かけた。
「で、何の交渉だ? こんな所まで来た
フレルバータルは対面の椅子に腰かけると、のけ反る様にしながら大きく足を組んでみせる。
見た所、手練れと言う訳では無さそうだ。
恐らく何らかの幻術、もしくは服毒などにより、警備の者たちを無力化したのだろう。
しかも、部屋の中には他に人の気配は感じられない。
フレルバータルにしてみれば、
「はい、それではお時間もあまりございませんので、単刀直入に申し上げます。フレルバータル様には、日の出迄にこの城を退去頂きたい」
「ほほぉ。俺に出て行けと申すか?」
「はい」
「直ぐにか?」
「はい」
「ふぅぅむ……」
グレーのフードに隠れ、
しかし、この迷いや淀みの無い返答。
どうやら、伊達や酔狂で話をしている訳では無さそうだ。
「で? 俺がこの城を退去すれば、俺にはどの様な
「フレルバータル様。お話しごもっともでございます。私が差し上げられる
――コトリ
テーブルの上に差し出されたのは、鷲の羽が施されたヒスイの首飾り。
その首飾りを見た途端、フレルバータルの表情から、融和の要素がゴッソリと抜け落ちた。
「……全滅か?」
「いいえ、およそ三百五十が捕虜に」
「怪我人は?」
「二百ほど。私どもで手当てしております」
「死者は?」
「全て貴殿の兵に埋葬頂きました」
「そうか……」
フレルバータルは椅子の上でゆっくり姿勢を正すと、静かに瞳を閉じた。
間違いない。
あの首飾りは、ボルトの物だ。
ボルトは誇り高き男である。
むざむざと敵に降る様な男では無い。
ましてや、彼には危うくなったら逃げろと伝えてある。
その判断を誤る様な間抜けでは決して無いのだ。
……
どれ程の時間が経ったのだろうか。
フレルバータルはもちろんの事、フードを深く被った人物もまた無言のまま、身動ぎ一つしない。
やがて……。
「……ふぅぅぅ」
深い溜息とともに、ようやく瞳を開くフレルバータル。
「そう言えば、自己紹介がまだだったな。俺はフレルバータル。草原の民を率いる者だ。皆からは
「フレルバータル様、ご尊顔を拝し奉り、光栄至極にございます。私、エレトリア第十一特別大隊所属、魔道小隊長を務めますテオドラと申します」
相互に名乗り合う際、己が顔を晒さないと言うのは、相手に対して非常に失礼な態度であると言えた。
普通の交渉者であれば、即時首を撥ねられても文句は言えない所だ。
しかし、魔道を極める者たちと言うのは、人前で自身の顔を晒す事はほぼ無い。
そこには何らかの儀式的な忌諱があるのであろう。
魔道に関する知識を殆ど持ち合わせていないフレルバータルではあったが、その程度の事は知っていたのだ。
「そうか、テオドラ殿か。ますは礼を言わせてもらおう、テオドラ殿。我が兵たちの尊厳を守ってくれた事、死者を代表し感謝申し上げる」
そう言うなり、静かに頭を垂れるフレルバータル。
テオドラの方も、ただその光景を見守っているだけだ。
「で、捕虜の引き渡しはどうする?」
「はい。街道を西に二キロほど進んだ所に大きな風車小屋がございます。捕虜の方々には、そちらの方で待機頂いております。ただ……」
「ただ……なんだ?」
「ただ、日の出までにフレルバータル様全軍が城から退去されなかった場合、皆さまの身柄は……」
「ふんっ、そんな事か。我が軍は即時移動を開始する。心配には及ばん」
それを聞いたテオドラ。
今度は彼女が深々を頭を下げる事に。
「大変失礼な事を申し上げました。何卒ご容赦願います」
「うむ。分かれば良い」
「いいえ、私の不用意な発言により、お気を悪くされた事、大変申し訳なく存じます。罪滅ぼしに、もう一つ情報をお伝え致しましょう」
「ほほぉ、もう一つの情報とは何だ?」
半ば身を乗り出す様にしながら、彼女のフードの中を覗き込もうとするフレルバータル。
忌諱だとは知りつつも、この程度の事は許されると思っている所が彼らしい。
「はい。大ハーン様が……」
「何? 大ハーンがどうした?」
「……崩御されました」
「なんとっ!」
思わず絶句するフレルバータル。
大ハーンとは、フレルバータルを含む草原の民、全部族を束ねる首領の事である。
元来草原の民は複数の部族や血族により個別統治されており、事実上、国としての実体は無い。
ただ、部族間に及ぶ揉め事の解決や、天変地異発生時の相互扶助など、どうしても部族間の繋がりに頼らねばならぬ場面も少なからず存在する。
その様な場合に、全部族に号令が出来る強大な権力を握る人物、それこそが大ハーンなのである。
大ハーンは世襲では無い。
大ハーンが崩御したともなれば、全ての部族の中から、新しい
流石にフレルバータルがその地位に推挙される事は無い。
武の力もさることながら、やはり実績や人望、そして政治力が物を言う世界なのである。
何しろ大ハーンになる為には、全ての部族長の同意が必要なのだ。
草原の民の中でも、比較的大きな部族長は、恐らく自ら名乗りを上げる事になるだろう。
ちなみに、彼の父は崩御した大ハーンの従弟にあたる事から、血縁的にも実力的にも推挙されるべき位置にいる。
父にしてみれば、一世一代の
流石にその息子が、こんな遠国で戦争に明け暮れている暇などありはしないのだ。
「うっ、うぅぅむ……」
「それでは交渉は成立致しました。私はこれにて失礼させて頂きます」
そう言いながら立ち上がろうとするテオドラ。
フレルバータルはそんな彼女を手で制しながら、自ら壁際のテーブルの方へと歩き出した。
「いやいや、待たれよ。折角交渉がまとまった所ではあるし、大ハーンの話も詳しく聞きたい。どうだ?
フレルバータルは彼女に背を向けたまま、何やら茶葉の入った小さな壺を準備し始めた。
「お気遣いありがとうございます。ただ、交渉の結果を疾く知らせねばなりませぬ。私はこれにて」
テオドラはそれだけを告げると、再び部屋の中央部分に
その様子を自らの肩越しに確認するフレルバータル。
やがて、彼女の姿が完全に
「およそ十分ほどか……」
自らの手の中に握られていた、小さな砂時計を見つめるフレルバータル。
この砂時計は茶を淹れる時に使うもので、およそ十分の時を測る事が出来る。
フレルバータルは彼女が
にもかかわらず、気付けばこの砂時計の砂は全てが下の段へと落ち切ろうとしていた。
つまりこの間、彼の意識は全く無かったと言う事になる。
草原にも魔道士と呼ばれる人々は、僅かながらに存在する。
ただ、その殆どがまやかしであり、彼らの起こす奇跡の裏には、何らかのトリックが隠されていたものである。
恐らくあの
そうして、フレルバータルが意識を無くしている間に、恐らく彼女は堂々とこの扉から帰って行ったのだ。
人が
そんな事がこの
「しかし、用心はせねばなるまいな……魔導士か……やっかいな連中だ」
なにはともあれ、意識を無くしていた事は事実。
その間に襲われ、命を無くしてしまっては、元も子も無い。
今まで
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