第284話 鏖殺の幕開け

 ――バキバキバキッ! ドドドォォン!



 彼の怒声が轟音によって遮られた直後、例えようの無い浮遊感に襲われるボルド。



「くっ!」



 一体何が起きたと言うのか?


 目の前を先行していた直衛十騎。


 それが彼の視界から忽然こつぜんと消え失せてしまったのだ。


 ともすれば混乱し、思考停止に陥ろうとする彼の意識。


 しかし、彼はこれまで積み重ねた経験と胆力で、無理やりをつなぎ止める事に成功する。


 そして次の瞬間。


 彼に訪れたのは白黒モノクロームの世界。


 音すらも聞こえない。


 しかし、彼の視野は大きく広がり、その目に映る世界は、まるで時がその歩みを忘れてしまったかの様にゆっくりと動き始めた。


 フル回転を始めた彼の頭脳は、不要な色や音生存に関係の無い情報を全て排除カット


 半ば強制的に生み出したを総動員し、ようやく到達する事の出来る異次元の領域世界


 この時が止まる感覚。


 幾たびも戦場に立ち、死線をくぐり抜けて来た彼にとって、特段珍しい事では無い。


 実際、彼が窮地きゅうちに陥った時には、幾度となく彼の命を救う切っ掛けとなっていたのだ。


 ようやく落ち着きを取り戻した彼は、その広くなった視野を最大限に活用し、辺りの様子を伺い始めた。



(何だ、これは……)



 まずその目に飛び込んで来たのは、眼下に広がる地獄の門と見まごう程の大穴。


 その中には、折り重なる様に倒れ込む己が兵馬達の姿が見える。


 彼と彼の愛馬は、今まさにその上を、大きく飛び越えているようだ。



(……飛んだのか?)



 彼の指示では無い。


 馬が。そう、彼の愛馬が突然の異変に気付き、反射的にその暗黒の大穴を飛び越えようとしただけ。


 だとすれば、この時兵士達の生死を分けたのは、単に馬の能力の差と言う事だろう。


 彼は更に視線をその先へと向ける。


 つい先程まで慌てふためき、狼狽し、敵に自分達に背を向けて逃げ出そうとしていた兵士達。



(……笑ってやがる) 



 あわれむべき蹂躙じゅうりんの対象でしか無い、敵とも言えぬ、ゴミの様なヤツらが……笑っている。


 大きく目を見開き、口角を上げ、中にはボルド達の事をあざける様に指さしながら。



はめめられたっ)



 ここは石造りの街道である。


 当然、野原の様な柔らかい地盤であるはずが無い。


 しかも、先行するヤツらの騎馬隊が何事も無く通った直後である。


 いったいどうやって、敵はこの大穴を造り上げたと言うのか。



(いや、それよりも)



 ボルドはもう一度気持ちを後方へと移す。


 広くなった視野の一番端。


 そこでは、大きく陥没かんぼつした街道の大穴へ、今もなお後続の兵たちが次々と吸い込まれているではないか。


 何しろ更に加速する様、後続部隊へと指示を出した直後なのである。


 いきなり『止まれ』と言われても、大人おとな十人分ほどの体重を持つ馬が、急に停止できる訳が無い。



(……チッ!)



 フレルバータルからは『兵の損耗を最小限に』とあれほど言われていたにも関わらず、しかも、敵と一戦も交えぬまま、恐らく先頭を走る二十騎ほどを失ってしまった。


 ボルドは無能な自分自身を嘲笑あざわらいながらも、次の手立てに思いを馳せる。



(まずはヤツらを血祭ちまつりに。その後はどうする? 穴を塞いで後続を呼び寄せるか? いや、それには時間が掛かる。今からではもう追いつく事は出来まい。……仕方が無い。ここで引き返そう)



 彼は草原の民。


 勇猛果敢ゆうもうかかんで知られるラタニア人の一人だ。


 しかし、勇敢と蛮勇は全くの別物。


 彼はまだ若輩ではあるが、伊達にフレルバータルの右腕と呼ばれている訳では無いのだ。



 ――ダダンッ!



 陥没した街道の大穴を飛び越え、無事向こうへと到達した途端、ボルドの感覚に色と音が戻った。



「サンガ、サンガは居るか?」



 勢い余って更に駆け続けようとする愛馬をいなし、背後へと声を掛けるボルド。



「おうよ! 俺はここに居るゾ」



 彼の背後から力強い声が聞こえる。


 ボルドがフレルバータルの右腕ならば、サンガはボルドの右腕、優秀な副官と言えるだろう。


 ボルドの少し後方を追走していたサンガ。


 彼もまたボルドに続いて、大穴を飛び越えて来たらしい。



「サンガ、お前はここで後続の部隊を取りまとめ、撤退の手筈を整えろ。俺はその間にを皆殺しにしてやる」



「はっ! バウル、俺がそんな面倒くせえ事『喜んで承知!』なんて言うと思ったのか! ヤツらは俺の獲物だ。後続の取りまとめは部隊長のバウルお前に任せるぜ。なぁに、あんな小部隊ひとひねりだ。終わったら直ぐに帰って来るからよぉ!」



 言うが早いか、同じ様に大穴を飛び越えて来た騎兵数騎を引き連れ、そのまま敵の方へと駆け出して行こうとする。



「チッ、仕方ねぇなぁ。お前は本当に言う事を聞かねぇ」



 半ば呆れ顔のバウル。


 副官とは言え、バウルとサンガは従弟いとこ同士。


 歳も一つと違わない。


 同じ部落で双子の兄弟の様に育った間柄だ。



「おいっ! 深追いはするなよ。まだこの先に敵が隠れているかもしれねぇ。今日はココまでだ。目の前のヤツらを屠ったら帰るぞ!」



「おうよ! 任せておけっ!」



 サンガはそれだけ言い残すと、正面の敵を踏みつぶすべく、急ぎその場を走り去ってしまった。



「よぉぉし、穴に落ちたヤツを急いで助け出せ! 今日はこれで撤収する。無事な馬はロープで引き揚げろ。まだしれねぇ。急げ、急げぇ!」



 大穴の手前で立ち往生している兵たちに向かい、大声でそう指示を出すボルド。


 しかし、こう言う時のは、大体当たるものだ。



 ――ヒュン、トスッ!



 大穴へとロープを投げ入れ、落ちた仲間を引き上げようと準備する一人の兵士。


 その首筋に突然、一本の黒いが突き刺さった。


 騎兵の雑踏と、馬のいななきにより掻き消されてしまう程度の小さな音。


 そんな些細な音に、一体誰が気付くと言うのだろうか。


 気道を塞がれ、声を発する間も無くその場に崩れ落ちる兵士。


 最初に声を上げたのは、まさにその瞬間を目撃した後ろの兵士であった。



「矢っ、矢がっ……」



 ――ヒュン、トスッ! トス、トスッ!



 声を上げた兵士の頭蓋ずがいに、まとめて突き刺さる数本の鉄矢。


 結局、彼が発した声はこれだけ。


 ただ、衆目の中でもんどりうって倒れる彼の姿は、差し迫る危機を他の兵士達に知らせるには十分であった。



「てっ敵襲ぅぅ! 敵襲ぅぅ! 鉄弓クロスボウだっ、鉄弓で狙われてるぞ!」



 やがて、街道全域で沸き起こる悲鳴と怒号。



「森だっ! 森から撃って来てるぞ。馬から降りろ、盾だ、盾を装備ぃ! 身を守れっ!」



 ボルドが声を限りに叫ぶ。



 ――ヒュン、ヒュンヒュンヒュン、ヒュンヒュン!


 ――トストストスッ! トス、トスッ!



 しかし、その命令が届く間も無く、鉄矢が降りそそぎ始めたのだ。



「「ぐぁぁぁ! うぉぉぉ!」」



 既に密集状態で身動きが取れない兵士達。


 彼らは格好の鉄弓クロスボウの的でしかない。



「森だっ! 森へ向かって矢を放てぇ!」



 更に大音声で命令を伝えるボルド。


 しかし、如何せん。街道に沿って長く間延びした軍である。彼の意思はなかなか伝わらず、反撃も散発的にならざるを得ない。



「チッ! ヤツらどこに居るんだ」



 盾の影から様子を探って身を乗り出そうとすれば、まるで狙いすましたかの様に、彼の盾へと鉄矢が数本撃ち込まれて来る始末。


 その内の何本かは、彼の持つ木の盾を半ば貫通している状態だ。



「ヤツら近いな」



 鉄矢の貫通具合から考えて、どうやら敵は、岩山の中腹に鬱蒼と茂る藪の間から射かけているに違い無い。


 確かにこの辺りは街道も真っ直ぐで、岩山の方も少しなだらかな状態になっており、その途中途中に背の低い草木が生えている。


 敵はその藪の中に隠れているのだろう。



「白兵戦だ! 敵は岩山の中腹、藪の中! 一気に討ち取れぇ! うぉぉぉ!」



 どうせ大声で知らせても命令は行き届かない。


 ボルドは手近な兵を取りまとめると、盾を構えたままの格好で岩山に向かって突撃を開始した。



「「ウォォォォ!」」



 その光景を目撃した兵士達。


 彼らも次々とボルドに続いて岩山を駆けのぼって行く。


 鉄弓クロスボウは威力も強く、民兵でも簡易に扱えると言う非常に優れた武器だ。


 ただ、難を言うとすれば、機材が高価で帝国の様な裕福な国の軍隊しか保有できない事だろうか。


 そして、最大の欠点。


 それは、一度矢を放つと、次矢を装填するまでにかなりの時間が必要になるという事だ。


 つまり、鉄弓クロスボウは連射する事が出来ないのである。


 通常の弓矢であれば一分間に数本の矢を放つ事も出来るが、鉄弓クロスボウの場合は熟練者でも一分間に一本打てれば良い方なのだ。


 近接戦闘を行う上で、これは致命的な事と言える。



 ――ヒュン、ヒュンヒュンヒュン、ヒュンヒュン!


 ――トストストスッ! トス、トスッ!



 突然飛び出して来た兵士達に向け、一斉に撃ち込まれる鉄矢。


 しかし、そこがボルドの狙い目であった。



「今だ、かかれぇぇ!」



 彼は腰に帯びた刀剣シャムセールを抜き放つと、先陣を切って敵の潜む藪へと乗り込んで行く。



「「ウォォォォ!」」



 雄叫びを上げ、一斉に崖を駆けのぼり始める兵士達。


 と、その時。



 ――ピィィー、ピィィィー!



 森の随所から鳴り響く警笛の音。


 その音に合わせ、藪の中から帝国軍と思われる敵兵たちが一斉にその姿を現した。



「やはりそこに潜んでいたかっ! しょせん敵は小勢だ! 一気に叩き潰せ!」



「「ウォォォォ!」」



 森の中から現れたのは、せいぜい百、多くても二百名程の兵士達。


 恐らく弓を使う支援部隊アウクシリアなのだろう。


 敵は高所に陣取る優位性を活かし、攻め降ろして来るものと考えていたボルド。


 しかし、彼らはいくつかの小集団に分かれ、逆に崖を登り始めたでは無いか。



「臆したか、帝国兵よ! ここに来て戦えぇ! 誇り高き帝国兵とは名ばかりか? 所詮は支援部隊アウクシリアと言う事かっ!」



 そんなボルドのあざけりすら意に介さず、ただ黙々と岩山を上って行く帝国兵達。


 そんな中、兵士達の最後尾を進む一人がボルドの方へと突然振り向いたのだ。


 小柄で栗毛。グレーの瞳を持つその若者は、小さな背中に白銀はくぎんに輝く鉄弓クロスボウを括り付けていた。


 彼は、氷の様に冷たい眼差しでボルドの事を見据えると、たった一言こう告げた。



「死ね」


 ……と。



 ボルドと彼の間には、かなりの距離がある。


 大声で叫んでもその声が聞こえるかどうか。


 にも関わらず、ボルドにはハッキリと彼の声が聞こえたのだ。 


 そのあまりの衝撃に、ほんの一瞬、足がすくんで動けなくなるボルド。


 こんな殺意を感じたのは、フレルバータルと揉めた時以来の事かもしれない。



「……ゥウォォォォォ!」



 そんな自分の中に芽生えた小さな怯えを絶叫で覆い隠し、更に崖を駆け上がろうとするボルド。


 しかし、そんな彼の雄叫びは、その数十倍も大きな轟音により掻き消されてしまう事となる。

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