第195話 誰もいない洞窟

「うっ……うぅぅん」



 古ぼけた木枠の中に麦藁むぎわらが詰め込まれただけの簡易な二段ベッド。


 その一つに横たわる少女が、少し苦しそうにうめき声を上げる……。



 あかりは、壁際に掲げられている小さなオイルランプが一つだけ。


 どこからともなく吹く風に、そのともしびが小さく揺らいでいる様に見える。



「お姉ちゃん……お姉ちゃん、大丈夫?」



 その質素なベッドのすぐ脇。


 横たわる少女を気遣う様に、もう一人の少女が声を掛ける。


 恐らく姉を看病している内に、そのまま眠り込んでしまったのだろう。


 彼女は地面に直接座り込みながら、上半身だけを姉が眠るベッドへと預けた様な格好だ。


 ただ、彼女がじかに腰を下ろしている場所は岩が剥き出しの状態であり、いくら初夏とはいえその岩肌は冷たい。



 ――ブルブルブルッ



 彼女は大きく身震いをした後で、思い出した様にそっと姉の額に手を乗せてみる。


 熱は無い。


 いや逆に、その額はまるで死人の様に冷たく感じられる。


 ただ、先程までの様な浅い呼吸は落ち着きを取り戻し、小さな寝息まで聞こえている。



「ふぅぅ……」



 彼女にはこの状態が快方に向かっているのか、それとも着実に死へと近づいているのかは分からない。


 しかし、少なくとも『今、生きている』と言う事を確認して、安堵のため息を一つ。



 少し落ち着いた所で周囲を見渡してみる彼女。


 そう言えば、水も食料も無い……と言われていた事を思い出した。


 姉の洗礼が決まって以降、彼女は飲まず食わずの状態だったのだ。


 一時的とは言え安全と思われる場所を得、最愛の姉の容態も落ち着いている様に見える。


 そんな彼女の若い肉体が、次なる欲求として水と食料を求めたとしても、何ら不思議な事では無いだろう。



「お姉ちゃん。ちょっとお水と食料を探して来るね」



 未だ寝息を立てている姉にそう告げると、彼女は足音を忍ばせながらそっとその場を後にしたのだった。



 それから程なくして……。 



「……ランダ……ミランダ……」



 ベッドの上の少女がゆっくりと目を開けたのだ。


 焦点の合わない目で回りを見渡してみるが、暗すぎて良く見えない。


 つい今ほど、妹の声が聞こえた様な気がする。


 朧気おぼろげではあるが、何かを探しに行くと言っていた様な……。


 彼女は視覚での情報収集を諦め、もう一度そのまぶたを閉じてしまう。


 その代わり、ようやく回復しつつある思考力により、断片的な記憶をなんとかつなぎ合わせ様とし始めたのだ。



 確か……無理やり記憶を遡る彼女。


 ヴァンナに誘われた昼食ブランディウム


 急に体調がおかしくなったのはその後だ。


 食べたものは全て嘔吐し、一時期は下痢も酷かった。


 一切の食べ物、飲み物は受け付けず、夕方ぐらいには死んだ様に眠る事しか出来なくなっていたのだ。


 このあたりから意識が混濁し始めたのだろう。


 思い出される記憶もかなり曖昧となる。


 誰かが自分達の部屋へ出入りする音、そして気が付いたら妹では無い誰かに背負われて外へ。


 途中、何度も彼女を落としそうになりながらも、常に優しい声を掛けてくれる


 言葉の意味や内容は覚えていない。


 ただ、何となく心地よく、安心できる小さな背中。


 その後、暗く小さな箱の中に押し込められて運ばれて来た場所……それがここに違い無い。



 手、足、と、その感覚を試す様に力を入れてみると、どうやら自由に動かせる事が分る。


 どうやら囚われの身……と言うよりは、何処かに身を隠している所なのだとようやく理解した彼女。



 それから、もう一度ゆっくりと目を開けてみる。


 天井は高く、深い闇が覆っていて残念ながらその先を見通す事は出来ない。


 瞳を右に向けると、かなり広い洞窟の様な場所である事が分った。


 元々夜目の利く彼女である。


 壁に掛けられたオイルランプの光で、十分に部屋の状況を把握する事が出来たのだ。


 今度は震える腕に力を込めて、無理やり上体を起こしてみる。 


 何も無い。殺風景な部屋……いや、洞窟だ。


 辺りには誰もいない。



 ――ゲホッゲホッ! ゲホッ!



 何か独り言を呟こうとした彼女は急な喉の痛みに耐えかね、思わず咳込んでしまった。



「はぁ、はぁ……っはぁ……」



 肩で息をする彼女は、そっと自身の唇に指を添えてみる。


 本来は艶やかに輝いているはずの唇。しかし今は、極度の乾燥でひび割れているようだ。



『水……水が……欲しい……』



 彼女は心の中でそう呟くと、水を求め、なけなしの力を振り絞ってベッドの横へと降り立った。


 ゆっくり立ち上がったつもりだったのだが、たったそれだけの事でも極度の眩暈めまいが彼女を襲う。



「くっ……」



 彼女は下唇を噛みしめながら、何とかその眩暈めまいに耐える。


 そのままふらつく足取りで壁際まで進むと、そこに置いてあった水甕みずがめと思われる壺を覗き込んだ。


 ようやくここで、妹が何を探しに行く……と言っていたのかを理解する彼女。


 恐らくこの部屋には水も食料も無いのだろう。


 しかし、そう考えると、余計に水が欲しくなる……。そしてその衝動は何物にも代えがたい想いとなって彼女の中で膨らんで行った。



 そして、そっと耳を澄ます。


 その広い洞窟の一角にある小さな横穴。その奥からわずかにだが、潮騒の音が聞こえて来る。


 もちろん、海水が飲めない事ぐらいは知っている。 


 ただ、その『水』を欲する気持ちが強くなるあまり、飲めないまでも『水』の傍に行きたい……。


 短絡的なその想いに支配されてしまい、他の事が全く考えられなくなる。


 彼女は震える足を半ば引きずる様にして、横穴の中へと進んで行った。


 やがて、横穴の出口に差し掛かると……。



 ――ビリッ! 



「あっ!」



 結界の事など知る由も無い。


 足に受けた突然の痛みに驚き、そのまま横穴の外へと倒れ込んでしまったのだ。



「痛っ……はぁ、はぁ……はぁ」



 何? 何が起きたのか? 気が動転し、何も思い浮かばない少女。


 と、その時。


 洞窟奥の暗闇の中からは、のくぐもった唸り声が聞こえて来たのだった。

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