第144.極甘の弟
「おい、クリス。お
「へい。承知っス」
夕闇に暮れるエレトリアの街並み。
マロネイア家の北門では、そんな闇を打ち払うかの如く、盛大な篝火が焚かれていた。
しかし、そんなマロネイア家ですら、この時刻に訪れる者など誰もいない。
夜の街であるデルフィ地区ならいざ知らず、普通の市街区では、日没以降に人々が出歩く事など殆ど無いと言って良い。
それもそのはず、街中を照らすものは月明かりだけであり、この様に盛大に篝火を焚く方が珍しいのである。
元々、エレトリアは気候も温暖で、漁港も近い。その為、オリーブオイルや魚油を使用したランプが広く普及している。しかし、それらの油や篝火用の薪等も、もちろんタダと言う訳では無いのだ。
人々は、太陽が昇る前に活動をはじめ、太陽が沈む夕方頃には自宅に帰ってしまうのが普通なのである。
もちろん、例外もある。
それは、市街区に出入りする馬車や荷車等の荷役労働者たちである。
帝都やエレトリア等の大都市では、特別な許可が無い限り、日中、馬車や荷車の大通りの通行を禁じていたのである。それは、都市内での交通渋滞に頭を悩ませた初代皇帝が、路面店や露店等の商品の搬入や搬出は、必ず夜間に行う様にとのお触れを出した事が発端となっている。
そんな夜の帳が下りたマロネイア家の北門前で、一台の荷車を取り囲む様に、四人の男たちが
「あぁそれから、ちゃんとタロス様から呼ばれて来ましたって伝えるんだぞ。いいな?」
「もちろん分かってますよっ!」
更に、後ろに控えるルーカスに向かって、自分に付いて来る様にと手招きをする。
「おい、ガキンチョ、俺が、ちゃんと挨拶の仕方を教えてやるから、付いて来い!」
「うん、わかった!」
「『うん』じゃねぇよ。返事は『へい!』だ」
得意げに先輩風を吹かすクリス少年。
とは言っても、彼自身、この業界に入ってまだ半年。神殿での洗礼も受けておらず、大人の仲間入りすら果たしていない。
しかも、マロネイア家の守衛を通るのですら、今回で二回目。
自分自身に気合を入れてはみたものの、軽く足が震えている様な状況だ。
そんな緊張感この上無い彼ではあったが、意を決して北門脇に控える衛士へと話し掛ける。
「あっ、あのぉ。お世話になっておりやす。手前、マヴリ ガータのクリスって言うシケた野郎でして。……あのぉ、……そのぉ、タッ、タロス様の……」
と、ちょうどその時。
門の奥から突然聞こえて来た
「おぉ、ルルル、ルーカスじゃねぇかぁ……」
篝火の明かりも届かない北門のその奥。守衛所のある方角から、大柄な兵士が門の所へとやって来た。
「あぁ、ヨルゴスさん! あっ、今は
「おおお、おぉ、そうなんだよ。そそそ、そう言えば今朝も来てたって、ききき、聞いたけど、こここ、今度はどしたい?」
門のすぐ傍までやって来たヨルゴス。
初めて会うクリスにしてみれば、最初は大柄な兵士だな? と言う
「……」
結局、見上げたまま、次の言葉が出て来ないクリス少年。
一方、ルーカスの方は既に慣れたもの。
「いやぁ、
「あぁ、そそそ、そうかい。ききき、聞いてるよぉ。たたた、タロス様は、飼育小屋の方におられるから、そそそ、そっち行ってくれぇ」
「はい。承知しました!」
「おおお、おぉ、たたた、大変な仕事だが、仕事は仕事だぁ。頑張れよぉ」
「はい、ありがとうございます!」
ヨルゴスはそれだけを言い残すと、そのまま守衛所の方へと帰って行ってしまった。
そんなヨルゴスが完全に見えなくなった所で、急に元気になって毒づき始めるクリス少年。
「んだよっ! どういう事だよっ! お
「えへへ、まぁ、ちょっとねぇ」
締まりの無い笑顔で答えるルーカスに、思わず歯噛みするクリス。
「あぁ、やっぱり俺、お前嫌いだわ。大嫌い。もう、何にも教えてやんねぇ。絶対に教えてやらねぇからなっ!」
クリスはそれだけを告げると、ルーカスを残したまま荷車の方へと歩き出す。
「あぁぁ、もう、すぐそうやって拗ねるぅぅ。
「うるせぇ、うるせぇ! 俺に近寄るんじゃねぇ!」
足早に歩み去るクリス。そんな彼に追いつき、少し甘える様にその袖口を引くルーカスは、やっぱり何やら楽しそうであった。
◆◇◆◇◆◇
「おぉ、意外と早かったな」
マロネイア家の北門守衛所を通り過ぎ、妾専用館へと続く上り坂に差し掛かる手前。そこを左手に曲がった所に、大型の動物を飼育する為の飼育小屋があった。
もちろん、小屋といっても優に二階建て
本来であれば、こんな夕暮れ時に、誰も居るはずの無い場所であるにも関わらず、目的の男は、小屋の前の椅子に腰かけたまま、荷車を運ぶ四人組を出迎えてくれたのだ。
「いや何、丁度、若い
出迎えてくれたタロスに向かって、笑顔で話し掛けるテオドロス。
「そうかい、それじゃ早速この奥の部屋にいるからよ。ちゃっちゃと頼むわ」
一方、タロスの方はと言うと、あまり気乗りのしない表情だ。
「でもよぉ、三人ぐらいだったら、
「それ、毎回言うけどな、勘違いするなよ、俺はお前みたいな
テオドロスの言葉に、半ば呆れた様に肩をすくめるタロス。
「ははは、お前、昔からそう言う所があるんだよなぁ」
「まぁ、お前と兄ちゃんの違いは、そこにあるんだよなぁ。そういう意味だと、お前の兄ちゃんは、中途半端に厳しいんだよ。だから、俺はお前の兄ちゃんが嫌いなんだ」
タロスは、テオドロスからの率直な意見に、苦笑を隠せない。
「ははは、おいおい、あんまり
「何言ってるんだい、極甘の
「なっ、何をぉ!」
「だははは、まぁ、俺ぁ、お前のそういう所が、大好きなんだがな!」
「ケッ、好きにしろ」
恒例行事の様に、一通り冗談を言いながらじゃれ合う二人。それでも気分の晴れないタロスは、片手を上げてその場を立ち去ろうとする。
ただ、去り際に振り返りながらタロスがもう一言、二言。
「あぁそれからなぁ、中で
「へいへい、分かったよ」
それだけを言い残すと、タロスは守衛所の方へと行ってしまった。
テオドロスの方も、そんなタロスを見送ったあと、一人肩をすくめて見せる。
「それじゃあ、いつも通り、庭園外周のあずまやの方まで連れてくか。確か、あそこには、小川があるから何かと便利だしな」
気を取り直し、テオドロスは他の三人へと指示を出した。
「「へい」」「はっ、はい!」
――スパーン!
ルーカスの返事を横で聞いていたクリスが、ルーカスの後頭部を平手打ち。
「さっきも言ったろぉ? 返事は?」
「あぁ、すみません。兄貴っ! へっ、ヘイッ!」
そんなルーカスの態度を満足そうに見つめるクリス少年。
結局の所、なんやかんや言っても、クリスは弟分の面倒見が良いのだ。
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