第十章 女神降臨(ルーカス/ミランダルート)
第99話 十人隊長の余裕
「サロス様、サロス様っ!……」
庭園外周を、大きく取り囲む様に配置された遊歩道。鬱蒼と生い茂る巨木に月明かりは遮られ、漆黒の闇となり果てている。
その暗闇の中を、松明一つ持たず、常人とは思えない速度で駆け抜ける一人の男がいた。
彼は焦っていた。
自身の些細な過ちにより、崇拝する主人を命の危険に晒すと言う結果になろうとは。
ようやく遊歩道を抜けた彼の目には、奴隷専用館の裏口が映る。
しかし彼は、走る速度を全く落とす事無く、今度はその裏口を横目に見ながら、奴隷専用館の壁伝いに、庭園から中庭の方へと駆け出して行こうとした。
そんな彼が、背後から声を掛けられたのは、丁度その時であった。
「はぁ、はぁ、はぁ……。 お待ち下され、お待ち下され、サロス様」
「……お前はっ?」
声を掛けられた事で、少し走る速度を緩めるサロス。しかし、その走りを止める事無く背後を振り返ると、声の主に向かって誰何する。
「わっ、私は……つつっ! はぁ、はぁ。 十人隊長の……、ドメニコスと、申す者……」
「申し訳ございません。 一度……お待ち頂けませぬか? 申し上げたき儀がっ……」
少し走る速度を緩めたとは言え、常人を軽く凌駕する速度で走り続けるサロス。
ドメニコスとの距離は開くばかりで、話す声も途切れ途切れだ。
幸いにも、庭園の方からは、何の物音も聞こえて来ない。
(確かに館の方へ逃げ込んだと思ったのだが……、気のせいであったか……)
予想に反する庭園の静けさに、逆に不安に駆られるサロス。そんな彼は、自身の背後から駆けよって来る男に向かって、その鬱憤をぶつけてみる。
「クッ! 何用だっ! 早く申せっ!」
「あ、いやいや。……はぁ、はぁ。かっ、簡単な事でございます! 先程……、『犬』を解き放ちました故、……不審者の捕縛も……時間の問題……かと」
「……何っ!?」
「うおぉっと、っとっと!」
その話を聞いたサロスは、驚きの声を上げて、突然立ち止まる。
ドメニコスの方も、サロスに合わせて立ち止まったのだが、残念ながら、後続を走っていた部下の兵士が、突然立ち止まったドメニコスに、思い切り突っ込んだのだ。
もんどり打って倒れる二人。
――ガシャガッシャン!
「おおぉ、サロス様。これはご無体な。急にお止まりになるものですから、思わず転んでしもうたぁ……はっはっは!」
呑気にも、自分と部下の不始末を、軽く笑い飛ばそうとするドメニコス。
「チッ! そんな事はどうでも良いっ! 貴様があの魔獣を解き放ったと申すのだな!?」
未だ驚きの色を隠せないサロス。鋭い眼光で
「その通りでございます。ですから不審者の発見も、時間の問題かと申し上げました」
「その証拠に、先ほど警笛の音が聞こえ申した。恐らくあれは、不審者を発見した知らせでございましょう」
「いやいや。既に、魔獣の腹の中に納まっておるやも知れませぬなぁ。はっはっは」
当のドメニコスは、そんなサロスの厳しい視線の意味を知ってか、知らずか。ニヤニヤとした嫌らしい笑みを続けながら、己が考えを滔々と述べ始めた。
「……きっ貴様ぁ。何と言う事を! まかり間違い、魔獣によりアゲロス様にお怪我など負わせてみよっ! 貴様のそっ首、この私が跳ね飛ばしてくれるっ!」
今にも腰ににぶら下げたダカーを抜き放たんばかりに、その柄へと手を掛ける。
「いやいやいや、滅相も無い。何を恐ろしい事を申される!」
「ご安心召されよ。かの『犬』は、既に隷属の契約により縛られておりまする」
「マロネイヤ様に歯向かう事など、あろうはずがございませぬ」
ドメニコスは、部下の男に抱えられる様にして身を起こすと、まるで己が手柄の如く、自身満々に話始めた。
「いやっ! 万が一と言う事があるっ! しかも、既に女奴隷に、人足一人、更には兵士一名が食われておるっ! 貴様っ! この失態の責任を如何するつもりだっ!」
その男の、そんな簡単な言い訳では納得の行かないサロス。柄に掛けた彼の手には、更に力が籠められる。
「はて? 面妖な。女奴隷に人足は、致し方ございませぬなぁ。夜間にウロウロしておったのが悪いと言う事で。……しかしながら、兵士まで食われるとは。……うーむ。腹でも減っておったのか……?」
「えぇい! 黙れ、黙れっ! お前との話は時間の無駄であったわっ! このままそこで待っておれ! アゲロス様の無事を確認した後で、お前への沙汰を言い渡す!」
この後に及んでも、なお掴み処の無いドメニコス。サロスの怒りは頂点に達しようとしていた。
「あいや、お待ち下され。サロス様。ご安心召されよ。あの『犬』めは、私の言う事には、従わざるを得ぬのですよ」
そんなサロスの怒りを後目に、尚も余裕の表情を崩さないドメニコス。
ただ、その言葉を聞いたサロスは、一つの結論に達し、思わずその男へと聞き返した。
「何っ?! お前、まさか、……魔道の術を?」
「はい。少しばかり……。幼少の頃に、神官を志し、神官学校の試験を受けた事がございます」
かなり、もったいぶった言い方をするドメニコス。いつものサロスであれば、自らの目の前でそんな言い方をする男を、ただで置く事はない。しかし、この場面では、そんな自分の好き嫌いをグッと飲み込まざるを得ないほど、インパクトのある情報が、その言葉の中には含まれていた。
「して、お前、神官になったのか?」
我慢しきれず、結論を急かすサロス。
「いやいや。実力、知力ともに申し分の無い、私ではございましたが、残念ながら私は奴隷の家系」
「太陽神殿の神官学校は、『家柄は問わぬ!』と声高にふれ回ってはおりますが、御覧下さい! 結局入学を許されるのは、良家の子弟に限られておりまする」
「しょせん、奴隷出身の私では、入学すら認めてはもらえませなんだ」
あきれ果てた様に両手を広げ、延々と昔話を披露するドメニコス。
「そんな事はどうでも良いっ! して、お前は、魔道の術を使えるのか? 否か?」
ドメニコスの昔話に付き合いきれず、己が疑問を二者択一にして、更に結論を急がせる。
「へっへっへっ。ご安心下さい。もちろん使えまする」
「あんな図体だけが大きくなった様な『犬』など、恐るるに足りませぬ。ご安心召されよ」
ようやく
「……よしっ、分かった。私に付いて来いっ!」
サロスは十人隊長であるドメニコスと、もう一人の兵士を引き連れると、庭園から中庭の方へと駆け出して行った。
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