第86話 姉の想い

「んもぅ、いつまで抱き合ってるのよぉ。置いてくわよっ!」


「……さぁ早く立って!」



 その少女は少し不機嫌な様子で、傍に蹲る二人の男女を叱り飛ばす。


 もちろん、静まり返った夜の庭園で、大声を出す訳には行かない。その言葉は、二人にだけしか聞こえない程度の声音で、かつ、自身の焦りとイライラの気持ちをこれでもかと盛り込んだものであった。


 ただ、何でこんなに自分がイライラしているのか? その少女自身も、実は良く分かっていない。……ただ、ただ、無償に腹が立つ。



「……くっ!」



 叱られた方の少年は、今まで、その胸に抱き抱えていた少女ミランダに助け起こされる形で、ようやく立ち上がる事が出来たに過ぎない。それもそのはず、彼の右足の傷は思いのほか深く、満足に動く事すら出来ないのだ。


 その苦痛に耐えるべく、険しい表情の少年。彼の額には脂汗がぽつぽつと浮かび上がっていた。



「ルーカス、大丈夫? 痛い?」



 今度はルーカスを横から支えるミランダ。彼の傷が大丈夫で無い事は百も承知なのだが、彼の苦痛の表情を間近で見る内に、どうしてもそう口走ってしまう。



「あっ、あぁ大丈夫だよっ。とにかく急ごう……ッッ」



 少年は、そんな少女ミランダに心配を掛けない様、精一杯の明るい表情で返事を返してみる。しかし、どうしてもその言葉尻に、痛みの気持ちが滲み出てしまう。



「はぁ、はぁっ、……はぁ、はぁ」



 ゆっくり、ゆっくり。館を迂回する様に、庭園中央の遊歩道を進んで行く三人。



 すると突然!


 ――バキバキバキッ! ドゴッォォォォォ



 三人の後方。庭園端に広がる林の一角が、爆発でもしたかの様に、けたたましい爆音を上げて吹き飛んだのだ。



「うわっ!」



 少年は、あまりの衝撃に、思わず叫び声を上げて、後ろを振り返る。


 遠く、庭園端の林の一角にできた黒い大穴。


 付近の大木は奇妙にも拉げ、場所によっては、大きくなぎ倒されている。


 少年は、尚も目を凝らして、その大穴を見つめるのだが、距離もある事から、月明かりだけでは、その詳細を見る事すら叶わない。


 しかし、二人の姉妹には、これだけの月明かりがあれば、十分であった。



「ヤバいっ!」



 己が瞳孔を最大限に広げ、その大穴を睨みつけていた姉妹の姉は、ついにその闇の中に、原因のを見つけてしまう。



グレーハウンドアイツが真っすぐコッチに来るっ!」



「えぇぇッ!」



 またもや、その衝撃の事実に、大声を上げてしまうルーカス少年。



「お姉ちゃんっ! どうしよっ! 隠れる?」



 少年を脇から支えるミランダ。隣で闇の中を凝視する姉に向かって、判断を仰ぐ。



「ダメっ! ルーカスこの子の血の臭いに引き寄せられて来たのかもっ!」



 姉の答えは明快だ。


 三人は風下に逃げていたはずなのだが、こうも早く発見されると言う事は、やはり、血の臭いに気付いたとしか考えられない。


 グレーハウンドの恐ろしい嗅覚は、風に乗れば、数キロ先の血の臭いを嗅ぎ分けると言う。


 何かの拍子に風向きが変わったのかもしれない。


 いや、もう、そんな事を考えている余裕は無い。とにかくグレーハウンドアイツに見つかったと言う事が事実であり、最大の問題だ。


 ミランダと二人であれば、全速力で逃げられる……かもしれない。もちろん、それでも可能性は低く、どちらかが捕まる可能性の方が高いだろう。


 にも関わらず、こちらには、ケガ人がいる。しかも、逃げ切る、逃げ切らないの問題の前に、『目印』を連れて歩いているのと同じだ。



「しかも、グレーハウンドアイツかなり怒ってるっぽいっ!……目が真っ赤だもん!」



 グレーハウンドの瞳は、通常琥珀色に輝いている。しかし、怒りに我を忘れた時や、戦闘時など、その瞳は、己が力でねじ伏せた獲物達の大量の血で染め上げたのでは無いか? と思われるぐらいの深紅に変貌するのだ。



 彼女達の瞳に映るグレーハウンドは、間違う事無き、深紅の瞳を輝かせていた。



「ミランダッ! ごめん! ルーカスその子置いて行こっ!」



 姉は、この場で考えられる、最も生存率の高い方法を提案する。


 そこには打算も何も無い。純粋な生存本能が、彼女にその答えを突き付けたに過ぎない。



「だっダメだよっ! ルッ、ルーカスは大切なっ……」



 姉の突然の提案に、まずは否定から入ってはみたものの、言葉尻に行くにつれ、言い淀むミランダ。もちろん、彼女の心の中では、姉と同じ生存本能が、同様の答えを声高に叫んでいるのだ。



「……大切な? って何っ!?」



 予想外のミランダの反応に、思わずキツく聞き返してしまう彼女



「……とっ……友達だから……」



 ミランダは俯き加減に、姉に告げる。しかしそれは、言い淀んだ上での、嘘の上塗り。



「うーん、友達は、また出来るよっ?」



 妹のその言葉を真に受けたかの様な姉の返答。ただ、その内容は多少あんまりな内容ではあるが。



「ううん! ダメダメッ! ルーカスは、ルーカスは……ダメなのっ!」



 姉のワザとらしい反応に、少し癇癪を起しかけるミランダ。いつの間にか、脇から支えていた大切なはずのルーカス少年は、遊歩道脇に放って置かれている始末だ。



「……」



 そんな妹の様子を真剣な眼差しで見つめる彼女


 そして、ゆっくりと視線を外すと、深い溜息を一つ。



「ふうぅ……仕方が無いわねぇ……」



 一瞬考える素振りを見せつつも、次の瞬間に彼女の瞳には、固い決意が現れていた。



「ミランダッ! 本気出すわよっ!」



 彼女は、視線を大穴へと向ける。



「うっ、うんっ! お姉ちゃん、ありがとっ!」



 そんな姉の姿を横から頼もしく見上げるミランダ。こうなった時の姉は、本当に頼りになる事を知っている。


 そんな二人の会話を蚊帳の外で聞いていたルーカス少年。


 ちょっと一区切り付いた様なので、よせば良いのに、思わず会話に参加しようとしてしまう。


 彼は彼なりに、足手まといになっている自分の事を十分承知しており、この二人に迷惑を掛けたく無い! との想いが先走っただけだと言う事を付け加えておこう。



「あっ、あぁ……、あのっ、ぼぼっ僕の事は置いて行ってもらっても……!



 その言葉を聞いた途端、彼女はコメカミに最大限の青筋を立てて捲し立てた!



黙ってらっしゃいだぁぁぁっしょいっ! ルーカスあんたなに聞いてたのっ? ミランダが、愛するルーカスあんたのために本気出す! って言ってるのに、邪魔しないでっ!」



「はっ、はひっ!」



 びっくりするぐらいの彼女 の剣幕に、思わず素直に返事を返すルーカス。



「とっとと、植木の下にでも入って、丸まってなさいっ!」



 彼女の怒りは全く収まる様子を見せない。


 結局、ルーカスは半泣きの状態で植木の根本へと身を寄せる事に。



「グォアァァァッ!……ゥアァァァァッツガッガァッ!」



 グレーハウンドは林の中から遊歩道へと姿を現すと、自身の脇腹に刺さっている何かを咥え、むりやり引き抜こうと、四苦八苦している様だ。


 その様子を庭園の中央から眺める二人。



グレーハウンドアイツ……手負いだね」



「うんっ」



 どの様な場合も、手負いの動物は非常に危険だ。ましてや、それが魔獣とも呼ばれるグレーハウンドであれば、猶更の事である。



「ミランダ、イケるっ?」



 そんな様子を眺めていた彼女は、ミランダに向かって尋ねる。


 その瞳には、疑いの色は全く含まれていない。



「……ちょっと大きいけど、……何とか届くと思う」



 妹の返答に、満足そうに頷く彼女



「ミランダッ、言っとくけど、仕留める必要は無いからねっ」



 ミランダも分かっているとは思うのだが、一旦戦闘が始まってしまえば、そんな事は記憶の彼方だろう。仕方の無い事だとは思うのだが、それでも、もう一度念を押してみる。



「わかったっ! お姉ちゃん」



 ミランダからの返事は、思いのほか自信に満ちていて、彼女を安心させる。確かにその目的はルーカスを助ける事にある。己が戦闘に酔って良い訳では無いのだ。これであれば、ミランダも自重した行動を取ってくれる事だろうと納得する。



「……お姉ちゃん……」


「……」



 ミランダからの問いかけの後、次の言葉が来るのを待つのだが、なかなか、その言葉が聞こえて来ない。業を煮やした彼女は思わず聞き返す。



「……なによっ。 どうしたの? もう来るよっ!」



 ミランダは、彼女の背後に陣取っている為、その表情を見る事はできない。



「……」



 ようやく、ミランダはその重い口を開く。



「……お姉ちゃん、……ありがとっ」



 その言葉を聞いた彼女は、例え様の無い嬉しさとともに、体中の血液が顔に集中し、思わず顔から火が出るのでは無いかと錯覚。


 そんな気持ちをミランダに悟られまいと、思わずキツイ口調になってしまう。



「……生意気言わないでっ! もぉぉ、私はミランダあなたのお姉ちゃんなんだからねっ! 絶対、絶対、ぜーったい、お姉ちゃんなんだからねっ!」



「……うん」



 そんな姉の優しい気持ちが、痛いほど分かるミランダ。


 その後、しばらく無言で、グレーハウンドヤツの行動を見守る二人。


 そんな中、やおら彼女が呟く様にミランダへと話し掛けて来た。



「最悪……グレーハウンドアイツが止まらなかったら……」


「ミランダ……ルーカスあの子背負って、逃げなさいっ」



 彼女は、グレーハウンドヤツを見据えたまま、微動だにしない。



「えっ、お姉ちゃんはっ?」



 またもや、姉の突然の言葉に、思わず聞き返すミランダ。



「お姉ちゃんは、……自分ひとりなら、何とかなるから。うぅん、何とかするから大丈夫」



「えぇっ、でもぉ……」



 姉の後ろから返事をするミランダは、視線をグレーハウンドヤツから姉の背中へと移動させる。



「ミランダ。お姉ちゃんが嘘付いた事があった?」



 そんな姉の言葉は、柔らかくも優しい。そう、いつもの様に。



「……ううん。……無かった。……でもぉ……」



 それでも、姉の言葉に納得の行かないミランダ。



ミランダあんたは、私の妹でしょ! もうパパもママもいないんだから、私の言う事がパパや、ママの言葉なのっ! わかったっ!」



 突然ミランダを叱る様に言い放つ彼女


 そんな姉の変化に観念し、瞳を伏せるミランダ。



「……うん。……わかった」



 どうしてだか……。なぜなのか分からない。でも、ミランダの瞳からは大粒の涙がこぼれて来る。



「……よしっ! それじゃ、準備を始めてっ!」



 彼女は、気を取り直した様に、背後に控える妹へと指示を出した。


 丁度その時。



「グォアァァァッ!……ゥアァァァァ」



 グレーハウンド魔獣は、大きく唸り声を上げると、三人の方へと向き直る。



 ……ドッ、ドッ、ドッ、ドドッ、ドドッ、ドドドッ、ドドドッ……



 ついに、準備が整ったのであろう。魔獣は徐々にそのスピードを上げつつ一直線に姉妹へと駆け寄って来たのだ。



「……プロピュライアの入り口で待ってるわ」



 彼女のその小さな呟きは、誰にも聞こえない。……それで良いのだ。

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