5月7日(金) 広島市中区本川町にある日本料理店「季節料理ながせ」で飲んで食べる。

広島市中区本川町にある日本料理店「季節料理ながせ」で飲んで食べる。


前日に「『季節料理ながせ』さんに行きたいね」と話していたら、飲食店への営業時間短縮要請の噂を業界人としての素早さで入手したらしく、昼に夜の予定について尋ねるメールがあり、夕方に予約をしたと報告があった。その予想はなんとなくついていて、行けなくなる前に訪れたいという危機感の表れは自分も一緒だった。


今日の映画を観て自分の記憶力を考えてしまった。一度会っただけで顔を覚えるのみならず、名前も忘れずに記憶する人がいる。それは酒のラベルも同様で、一度飲んだ味を印象深く話せる人がいる。そんな人を見ると、頭が良くて羨ましいと思う。


映画や劇のアフタートークだけでなく、ある分野の専門家が語るのを聞く時に、事細かに作品名や登場人物、役者、年代を覚えていると感心する。恋する女性の記憶力は誰もが天才、なんて聞いたことはあるが、自分は情熱と関心が足りないのか、出会った人の顔はすぐに脳裏から消え、名前は混同するだけでなく何度も聞いては言い間違え、酒の作り手とラベルはなかなか覚えられない。舌の記憶も同様だ。


メモすると忘れにくいというから、観聴きして味わった印象と感想を記録することで頭に定着させようとするものの、あまり覚えられない。一昨日に自分の働く職場に新しい人が入社したので、仕事を覚えようとする真面目な姿を眺めていると、メモ帳に書いてすこしでも早く慣れようとしていた自分が思い出された。記憶の遅さと不器用さを言い訳したいのか、必死に覚えようとしてもあまり頭に馴染む速度は変わらず、むしろ努力しない方が覚えられるのだろうと思った。


そんなわけで飲んだ酒をメモすることなく、気軽に口にしようと思いつつも、こうして記録している。もう支離滅裂だ。二日酔いの気だるさが本分を忘れさせて、目を暗ませている。


「季節料理ながせ」さんの飲み比べはお得で美味しい。陸奥八仙、山の井、梅之宿を飲み、口当たりの強さ、味の推移、色合いなどを感じると、時に自分の軽口と的外れを自重したくなる。これだけで意識が半分になるほど酔っぱらう。ただ記憶しているのは、重たさや野暮ったさはどの酒にも存在せず、似るようでいて繊細に異なる味の表情と色合いで、選択の良さがどの酒も基本となっている。要するに、どれもこの季節にあった香り良さとふくよかさがあり、みずみずしさが鮮明に輝いている。


「季節料理ながせ」さんはとても美味しい。その感想は繰り返し思い出され、写真を眺めて料理を確認すると、きゅうりの酸味、茄子の染み、鰹の強さ、ヌタの辛みに続いて、ゴマ豆腐の濃厚な舌触りが強烈に思い出される。温かったこれは食べるのが遅い自分を置いていくように温度が落ち着いてしまい、最近の昼のランチでも感じたが、しみったれた食べ方は時を逃すから、場面場面に適ったテンポも持つべきだと再度思うことになった。


豊かでふっくらした醤油がとても美味しく、刺身は一切れごとに噛みしめられる。鮮度が良いだけでなく、細かな包丁が口の中の溶け方に影響していて、すこぶる美味しい。いまさらながら刺身の扱い方も非常に上手で、目利きが凄いと、素直な感想が浮かんだ。


椀物は椎茸が豊潤に口の中に広がり、油が落ち着いて甘く、柔らかな衣のスズキの綺麗な白色とふっくらした香りが明るく、頬と表情を落とす上品な美味しさだった。木の芽がほのかに泳ぐ澄んでいながら明確な味を持った出汁が鮮やかで、ネギの厚みが豪快だった。


「季節料理ながせ」さんはとても美味しい。その感想だけで十分と思える食事の時間だったが、振り返るとそうもいかない料理があった。からっとした鮭のくどくない味わいや、ちょっと添えられたソラマメもそうで、この季節だからこその豊かな山菜の天ぷらに、香ばしく焼けた脂ののった魚の身など、どれもが真っ直ぐ響いてくる。


熱燗は、睡龍、扶桑鶴、秋鹿だ。締めのポークカレーは黄色くスパイシーで、筍と豚がたっぷり入っている。それまでの料理の細やかさと異なり、カレーは陽気に親しませてくれるだけでなく、ルーと米の位置と向きなど、地域性を確認しながら忘れてしまう。


そして隣の方を真似て、締めたくせにホタルイカを注文してしまう。


頭の働かない日があって、どうにもこうにもならないままにいれば、ついつい愚痴と言い訳で誰かを汚してしまうことがある。体調が優れず、機嫌が落ち着かないのではなく、ただただ頭脳の悪い日がある。それを宵越しの酒酔いとわからずにいて、意気ばかり空回りしてしまう。


カウンターには出会いのお客さんが並び、優しいおねえさんの気配りと燗酒に、酔っぱらいの会話を正面から受け答えてくれる快活な大将の「季節料理ながせ」さんは今夜も美味しかったというより、この値段にこの料理、そして外れない日本酒の品揃えに、品格と風格をより知って目が覚まされた気分だった。


ついつい長くなってしまったが、食事中の感想をくどくどしく戻すと、本当に美味しいという感動が続いていた。知識としての記憶は歳をとるごとに重要性を失うらしく、結局感覚そのものが今と昔を繋げてくれるようだ。なるべく食材や銘柄は覚えたいが、瞬間瞬間の実感に勝てるものはなく、他を食べてすこしは知った気の自分の今としては、「季節料理ながせ」さんの店の立ち位置を今日に味わって、稀な質を保っているとその背後にある仕事量と体力に感服するのが正直なところで、他にない優しさが今夜はより目立って見えるようだった。

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