3月27日(土) 広島市東区東蟹屋町にある東区民文化センター・ホールで「アーサー・ビナードが語る紙芝居『ちっちゃい こえ』&ヒロシマのこころコンサート」を観る。

広島市東区東蟹屋町にある東区民文化センター・ホールで「アーサー・ビナードが語る紙芝居『ちっちゃい こえ』&ヒロシマのこころコンサート」を観る。


ヴァイオリン:木村紗綾

ピアノ:吉見友貴、本山麻優子、上杉智穂、浦上智栄美、野村涼子、藤本佳奈美

チェロ:末永幸子

マリンバ:石原有希子

ソプラノ:くにし珠萌

メゾソプラノ:森明子

バリトン:山岸玲音


《第1部》ヒロシマのこころコンサート

ひろしまへ:詩・アーサー・ビナード、曲・中村暢之 

ふるさとの詩:詩・那須正幹、曲:・蒔田尚昊

ピアノの為の交響的組曲「瀬戸内」:曲・冬木透

そしえ 祈り:曲・横山菁児

チェロソナタ70:曲・中村暢之

Sonatine:曲・中村暢之

さがしても:詩・アーサー・ビナード、曲・高嶋圭子


《第2部》アーサー・ビナードが語る 詩集「さがしています」から紙芝居「ちっちゃい こえ」まで

写真絵本『さがしています』より

「おはようございます」

「焼けこげた鉄瓶」

「いらっしゃいませ」

詩・朗読:アーサー・ビナード、曲:高嶋圭子


絵本『ドームがたり』

作・朗読:アーサー・ビナード、曲:坪北紗綾香


紙芝居『ちっちゃい こえ』

作・語り:アーサー・ビナード、曲:中村暢之


ついこの間、東区民文化センターにやって来た時に、ふと、このコンサートに行ける予定があることに気がついた。RCCラジオでおなじみのアーサー・ビナードさんが昨年から話していて、去年の夏に紙芝居「ちっちゃい こえ」の各ページを媒介としたダンスパフォーマンスも観ていた。忘れていたわけではないが、なぜか行けないものと思いこんでいた。


絵本の朗読と紙芝居だけだったらおそらく足を運んでいなかったが、音楽関係者が大勢出演するプログラムに誘われたのだろう。ただし、仮に音楽がなかったとしても、おそらくアーサー・ビナードさんによる朗読を観て聴けるだけでも満足した自分が想像できる内容だった。


第1部開始前から強烈なエアポケットともいえる睡魔に襲われていて、まともに音楽を聴ける状態ではなかった。うとうとする中で感じたのは、始まりの「ひろしまへ」で別段演じることなく自然に朗読するアーサー・ビナードさんと、オペラ作品でも目にしたことのあるバリトンの山岸さんによる声量豊かな歌声による詩の変貌だ。旋律が加わると別次元の表現力を持ち、スケッチのように感じる詩の原文そのものに化粧された肉厚な色彩と立体感に驚いた。


それから二声の歌と広島にまつわる作曲家のピアノ曲を聴き、「燃える赤ヘル僕らのカープ」を作曲した横山さんの「そして 祈り」を聴き、近現代らしいクラシック曲の形もさることながら、ヴァイオリンの木村さんとピアノの吉見さんの技量の高さが印象に残った。


マリンバの豊かな音色を聴く頃にはどうにか睡魔も遠ざかり、高嶋さん作曲による「さがしても」を耳にして、詩のもつ骨格がいかな姿に肉付けされてボリュームを持つか再び山岸さんの声に実証された。


第2部になるとアーサー・ビナードさんの魅力にクローズアップされた。数年前のラジオで“オスプレイ”について激昂しながらまくしたてる姿に嫌気はさしたが、やや極端な持論を持ちつつも、詩人は批評家の側面を持つという誰か有名な人が言った信憑性に欠ける言葉を現すように、正鵠を突く語り口は好感に変わっていった。


その人物を実際に観て、自身の作品を自分の声で朗読して音楽とアンサンブルする舞台は、想像していたよりも得るところが多かった。以前朗読の舞台に音楽と演出が加わった公演を別に観たことはあったが、その時は小説の原文世界がむしろ他要素によって失われる実感を持ったことがあり、どうも遠ざけるようになったものの、今日の舞台は文学と音楽の組み合わせの効果を回復させる内容となっていた。


写真絵本「さがしています」はスクリーンに映し出された絵本から情感が伝わるよりも、自分のような他県から移住した者でも視覚経験として持つ被爆した物が頭とリンクして、朗読する詩の内容と融合した。芸術で最も良し悪しのわからないのが詩であり、読み物としてあっさり終わる印象なのが絵本だ。しかしそれは読み手の感性と想像力が足りないだけで、アーサー・ビナードさんの朗読を助けとすると、言葉は生命として存在を持つ。そこに音楽による過剰な情感と背景が加わると、演出として特別な表現力が備わり、詩と絵の組み合わせによる絵本が、どのような本質を持っているか判然される。


特に絵本「ドームがたり」は画のスズキコージさんが不気味に素晴らしく、色彩の使い方とややシュールでゆがむような絵は不穏な優しさを持って詩と一致しており、坪北さんの音楽はチェコの作曲家で聴いたようなフレーズを拝借しているようで、チェロ、ピアノ、マリンバというあまり聴かないトリオによってイギリスやフランスにも感じる情緒豊かな劇音楽として構成されて、朗読劇を彩るのにはあまりにも豊かに観衆を引きつけていた。原爆を象徴する和音や各場面の間など、単純でも難解でもなく、ありのままに作曲家の個性でもって音楽を組み合わせていた。


そして最後は「ちっちゃい こえ」をアーサー・ビナードさんの紙芝居で観ることになる。断片ながらも三作品に触れて、日本人ではない外国人だからこその日本語の扱い方の調子がどことなくわかるようで、自分のような擬古主義にはできないオノマトペの音律がとても伝わりやすい。それは詩人の想像力と感性があってこそ意味を持つもので、根本が乏しければ空疎で幼稚な日本語の垂れ流しにしかならない。ダンスを観た時に紙芝居の原文と絵は観ていたが、やはり実際に紙芝居してもらわないと作品の持つリズムは伝わらない。アーサー・ビナードさんに次々と繰られる紙はもったいぶった演出はなく、小さい世界ながら紙芝居舞台と絵は現実を強く持っており、同時にスクリーンに映された姿なら絵の細部まで知れるのだが、物質が持つ存在感は遠目であっても、カメラを通しては本物を観る姿には決してたどり着けない。それは絵本の原画を観るのと同じことで、コピーはどうしても本物から遠ざかってしまう。


写真、画、紙芝居と、詩は相手を変えている。しかし日本語への意識は基本を保ち、扱う主題も一貫としている。ようやくコメンテーターではなく、詩人としてのアーサー・ビナードさんの大きさを知るようで、公演後の最後のトークでは、時に激烈な調子で言葉を吐く姿もラジオではあったが、舞台上では知性と本質の一体となった未来に目を向けた人格者としての声があった。


司会の丸子さんの素敵な声と進行もコンサートを彩るのに欠かせなく、初めは大勢の出演者がもったいないと思いはしたものの、第2部でそれぞれの役割が大きく活かされていて、終わって初めて「ヒロシマのこころコンサート」という名前が理解できた。


延期が2回のあとの本番となった今日は、関係者の苦労も忍ばれる。それをほとんど知らない自分は、ただ満足して春の午後を記憶に残すほど、内容の詰まったコンサートとなっていた。

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