11月21日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで諏訪敦彦監督の「H story」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで諏訪敦彦監督の「H story」を観る。


2003年(平成15年) 電通、IMAGICA、サンセントワークス、東京テアトル 111分 カラー 35mm


監督:諏訪敦彦

撮影:カロリーヌ・チャンプティエ

音楽:鈴木治行

照明:和田雄二

出演:ベアトリス・ダル、町田康、馬野裕朗、諏訪敦彦、カロリーヌ・チャンプティエ、吉武美知子、洲濱元子


諏訪敦彦監督によるオープニングとアフタートークがなければ全く違った解釈で断定したであろう作品だった。


アラン・レネ監督の「ヒロシマモナムール」という映画のリメイク撮影の過程が描かれているので、その作品のテキストを改変せずに再現するシーンを観ていて、元を知っていたらずいぶんと異なった印象を受けただろうと、前半に考えることが多かった。


オープニングトークの情報を頼りにしていると、カンヌ国際映画祭での上映前に口にされた“UFOみたいな作品”という紹介はむしろ作品に対しての率直な感想をぼやかすようで、監督自ら口にした“ドキュメンタリーのような”という位置づけが、迷路の中を進む鑑賞の中でわずかな明かりとして迷い道に陥ることを防いでいた。


それでも疑問を持ち続ける状態は変わらず、映画鑑賞の一つの状態として、作品世界に没入することで観る者の意識と現実に覆いをして、夢のように虚構の世界を体験することがアフタートークで述べられていたが、この作品は常に画面と鑑賞者に仕切りが存在していて、決して中に入ることなく、「この撮影は虚構か、それとも現実か」という問いが与えられる。最近観た演劇作品でもこのような意識の状態に置かれたことがあり、娯楽作品のような映像と観る者の一体を持ちにくい、むしろ対峙するような位置関係は、現代アート作品を前にした時の考察を必要とさせられる。


演技か、ありのままか、舞台か、それとも舞台裏か、そんな問いを持ちつつも、常に感じ続けるものがこの作品にはあり、それは紛れもなくベアトリス・ダルさんという素敵な女優の存在だろう。アンニュイな表情をニュートラルに、自由を奪われた獣のように再現テキストという檻の中でうろついて苛立ち、困惑して混乱し、異邦人が感じる周囲との乖離による孤独も歩かされ、迫真の表情が虚構と現実の境を惑わすのだが、動作や仕草が放つ美そのものの本質は何も偽りを持たない。肉が薄いのではなく、極端に細く盛りあがるプロポーションはモデルとしての貴族性を持ち、スティーヴン・タイラーのようにシャウトしそうな口はペンなどをかじり、与えられた仕事への義務と周囲への愛想が瞬間的に頬を広げるが目の多くは硬直した鋭さがとどまり、当たり散らすように髪をかきあげては手元をいじる姿は落ち着きを持たず、日本でも外国の映画でも車窓から外を眺めるシーンに個人の安らぎや虚無は描かれるが、そんな場面やベッドで一人起きるところでしか倦怠は深呼吸できないようだ。そんな女優のあらゆる表情こそが、疑問を持たされることの多いこの作品の中での疑う必要のない醍醐味であって、たばこの煙が何度もくゆり、演技だろうとなかろうと魅せられる視覚画面は、様々な衣装がロケーションで華を飾り、夜の照明のなかで吸血鬼のような顔もみせる。


そんな彼女に唯一接する町田康さんはもはやマスコットとなり、演技かと考えるよりも本人そのままだろうと決めつけられるほど純粋な目がただあるだけで、言葉が通じないからこそペットに慰められるように距離と人間性が保たれるような気がした。


疑いなく時間を忘れるよりも鑑賞時間の長さを感じる作品ではあるが、テレビで放映されるNG集よりも深刻な撮影の舞台裏が呪縛のように取り憑く優れたシークエンスもあり、おそるおそる動くようなパンショットでむき出しに叫ばれるシーンもあり、ところどころで非常に印象に残るこの映画はアフタートークで解答をすこし教えてもらった。


映画の撮影に関わったことのない自分からすると、諏訪監督の語るロケ現場での予期しない出来事は非常に興味深く、最近とある本でエルガーとディーリアスの創作の性質が説明されていて、一人は頭の中にすでにある作品を形に移していき、もう一人は瞬間瞬間にアイデアを空気からつかんで移していくような対比で書かれていて、それがそのままジャズとクラシック音楽の比較にはならないが、即興的な作品とそうではない作品の違いは存在していて、この映画は事細かい台本を持たずに、揃ったキャストによってその瞬間から練り上げられたことが端的に説明されると、映画に持った印象と意味合いはずいぶんと生きた血肉に和らぐようだった。


特に女優のベアトリスさんと諏訪監督の出会いは創作の本質を穿つ貴重な話で、鶏が先か、卵が先か、ではないが、台本が先か、作品が後か、などのややこしい考え方よりも、作ろうとする意志と完成されたものが本物だという単純化された計算式のようで、撮影そのものも環境に左右されて頭に描くように撮れないことはあるが、編集は嘘をつかない、のような意味も語られると、そこが映画人としての腕前の見せ所だと、なぜか頭にブドウ畑と米の酒蔵が浮かんでしまった。


アフタートークのあとに知っている方とアフターアフタートークをする機会を持てば、これまたドラマのような話で、この映画の作られてから経過する20年という歳月がいかに関係者を醸しているかと唸るようだった。それはアフタートークで質問されていたもう一人の方が思い出す広島現代美術館の学芸員さんの話に似たもので、広島を舞台に作られたこの映画それぞれに事実があり、もちろん諏訪監督も含めて、虚構を生み出す根本となる現実の、何より生彩と威力を持つドキュメンタリーとしての魅力が日頃通うこの会場内に詰め込まれていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る