9月23日(水) 広島市中区堺町にある日本料理店「野趣 拓」で飲んで食べる。

広島市中区堺町にある日本料理店「野趣 拓」で飲んで食べる。


今月に入ってから毎週美味しい料理を食べて飲んでいる。半年前は入ることも恐れ多い店ばかりで、今では少し知った気になっているから、大きな顔しないように気をつけなければならない。結果的に見れば、コロナウィルスが発端のテイクアウトから味を知って現在のこのような動きとなり、制限によって他が伸びるのは、摘心によってわき芽が出るのと同じことだろう。


映画や美術鑑賞に比べると、演劇やコンサートはやや高くなり、さらに上へ行くのが食と服飾という印象がある。天井桟敷のように覗くこともできるが、それなりの店で食事を味わうにはボックス席と同等の支払いが必要となる。それはもちろん金銭だけでなく、コネクションという信用も要入りとなってくるだろう。


そんなことを考えると、最近は食べ過ぎという実感を覚えてしまい、懐具合も含めて恐れを抱く向きがある。何か悪いことをしているような気がするのは、経験のない散財によって将来にツケが来るのではないかと身構えてしまうからだろう。ただし旅行とほぼ同額となる食事への入り口はやはり同等の価値と経験があるから、不安を覚えたならばさらに突っ込んで破滅してしまえという不道徳な心もあり、そこに価値観と視野を広げる根本の活動力もあるのだろう。


そのようなしかつめらしい気持ちを持ちつつも、「野趣 拓」さんに来て表面張力で浮く日本酒を口にしてしまえば、顔も何もかも崩れてしまう。これこそ依存性のある快楽に違いない。どうでもよくなる、これは本当に大切な心持ちだろう。


綺麗な色合いだからこそ少し毒々しい誘惑を併せ持つつるむらさきの蕾は、葉も花もその中心とする個性の異なった発露だと気づかされる味わいで、出汁のうまみからこごりに味の乗ったハモがほころび、香りよいずいきが横で泰然としている。


これまた出汁の美味しい椀には乳灰色のヒラタケと金時草の濃緑が隣り合い、シャープなグリーンのインゲンにのるかぼすの小片が香りづける奥に、滋味のあるムカゴがいくつも潜んでいた。


ハーブに溌剌と彩られた底面に天然鯛とかますが構えていて、一方は澄み切っていながら旨味がたっぷりつまり、もう一方は炙られた皮が香ばしくその裏側にじわっと味がにじみ、色気のある醤油をかけた千差万別な緑の中で口は萌えるようだった。


珍しい食材だというエビスダイの幽庵焼きは、赤い皮目から魁偉な肢体を想像して、最近観た「影武者」の武田信玄の甲冑を連想してしまう。切れ味よりも剛腹な味わい深さを持ち、焦げた皮には酒を呼び込む風采があり、大きな存在に呼び込まれる力強さを感じた。その隣には乳酸発酵したビーツが新鮮な明るさを見せていて、サツマイモとトマトも鮮烈ながら酸味と艶のある味わいで魚との幅を広げていた。


赤と緑が中華伝来の磁器らしい色合いの上には、皮の香ばしいサワラのタタキが桃色の艶やかな身肉をグラデーションしていて、フェンネルの花がエスニックというよりも、弁髪のふくよかな顔の小僧が戯れる姿を頭に浮かばせるが、その髪型と姿は間違って自分の中に符合している。


アナゴの蓮根蒸しはまるでアワビのように輝き、とろっとしたあんを口にするだけで旨味に引きずり込まれ、そのままスプーンですくって全部飲み干しそうになるが、炙りとは異なる立ちのぼる味わいはその動きを止めさせる。


などと食べている間は考えず、耳と口に集中していればいつの間にか時間も過ぎてしまい、新生姜と干し蛸のごはんになる。ふっくらした蛸の香りと三味線のように細かく響く生姜で、香の物に箸を伸ばしつつ、茗荷も気持ちよい味噌汁と合わせていく。


デザートはイチジクの変化したソルベで、冷たいながら直に伝わってくる果実そのままの風味が生きており、いったいどんな調理でこのように様変わりするのかと、見えない実体のエキスを吸うようだった。


この日は一緒に席を共にする人もいて、連休明けの詰まった忙しさにくらって疲弊と無口になりがちの自分は、お客さんへの配慮を怠らずにおもしろく話を引き出す大将と、この日休みだった隣の女ジャイアンの会話を聞きつつ、目がとろんとしてしまった。当然のように出てくる質の高い料理をしながら、上辺だけでない喋りもこなし、見送りも心がこもっている。どれだけの神経で店内を張っているのかと、サッカーのフィールドを驚くべき鷲の目で俯瞰する司令塔のような存在を感じた。自分以外は皆仕事場を持つ店主さんで、感覚の違いがそのまま提供する食べ物に表れているのだと、それぞれの店の人気の理由を本人達に透けていると言えば、嘘になってしまうほどおのおの人間としての個性を持っている。


この界隈の話もあり、命知らずなほど活動し続ける驚異のエネルギーにも言及して、他の業界は知らないが、毎度感心するつながりの良さにおとがいを小さく落としてしまう。レベルの高い仕事にはやはり人柄にも迫力があり、それでいて身近に感じる人懐っこさもあるから不思議なものだ。皆々まっすぐいかない苦労と道を通ってきて、名実をもった店を営んでいる。


食べ過ぎ、飲み過ぎ、使い過ぎ、と言葉で書きながら、しょせんそれらも他に比べれば甘い位にあるのだろう。歳をとって食べられないことを嘆く前に、体を使い、金も使い、他人に無心するくらいの境遇になれば、すこしは一個の存在として臭い味わいでも備わるだろう。見事なオバタリアンの力業で人を繋げる身近な人の子分のようではあるが、骨川スネ夫のように口を尖らせ、この調子で食と人を味わう生活を送ればいいやと店の外の夜に歩けば、アリよりも間違いなくキリギリスに甘んじるだろうと予感する。そして今後も、酔った口の雄弁さを土管のリサイタルのごとく聞き入って生きていくのだ。

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