9月13日(日) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「島尾敏雄の『湾内の入江で』」を読む。
広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「島尾敏雄の『湾内の入江で』」を読む。
この本で今まで読んできた中では分量の多い約十三ページのこの作品は、読点少なく説明多く、情感をむやみに揺り動かすことなく、魚雷での特攻を志願するまでの経緯が描かれている。
長いセンテンスを基本としたリズムがあり、やたら改行することもないので、細かく内容を知るにはもってこいではあっても、装飾少ない文体は味気ないわけではないが単調になりがちで、要らないと思われる単語や紹介も散見されていた。そのかわりすんなりと読めるので、短編にしては長く感じる作品だが早く朗読しても内容は頭に入り、またそれほどの疲れもなく、ところどころに体験を元にした事実としての意味が伝わってきた。
魚雷艇学生として横須賀から長崎の川棚へ海軍学校は移り、訓練の意味やその効果などの分析も加えつつ、自己の感想も少なからず交えて描写されていくのだが、突飛な構成なく淡々と書き進められていくので、構造の妙や脚色に味わいは少なく、あくまで私小説としての事実の伝達が色濃く、芸術としての文学作品の度合いは乏しいだろう。強く記憶に残る特別な作品よりも、特攻志願までの実態を描いた貴重な資料としての意味合いが強く、やはりドキュメンタリー性に比重はあるだろう。
“彼は先ずわれわれ魚雷艇学生の海軍兵科将校たらんとして努力した成果を認めた。訓練途上ではその山船頭振りを遠慮なしに指摘していた彼が、短期間内の達成にしてはよくやったと称揚したのだ。その評価の上に立って、魚雷艇学生が特攻隊に志願することが認められたと言った。或いは許可すると言ったのだったか。はじめ私はS少佐の言う意味がよく飲みこめなかった。しかしやがてそれは染みが広がるふうに理解できた。要するに海軍は魚雷艇学生の中から特攻の志願者を募っているのだ。口調はいつもと変わりはなく、言葉に衣をかぶせない言い方もそのままだったが、S少佐の表情の中に、いつもにない切なげなやさしさが感じられた。それはふだんにふと漂わす虚無的なかげりはすっかり影をひそめ、どことなく官僚的な事務処理の説明の調子の勝ったものになっていたのではあったが。私の耳には、彼がわれわれに向かってよく口にした、バーカ、という少しおどけた、しかしいくらかは本音でもあるざっくばらんでしかもあたたかな間投詞が今もなお生き生きと残っている。しかしその時彼の口調から私が感じたのは、苦しげな表情とでも言えるものであった。勿論あからさまに口に出せぬ分だけ、彼のぶこつな容貌はやさしさにあふれていた。”
特攻隊について描かれた映画作品のいくつかの記憶が重なり、それらが材料となってこの情景を浮かばせるのだが、映像で目にした怒鳴り声はそれほど聞こえないナイーブな描写となっている。
“ 長い一日の不意の休暇はそのようにして与えられた。終日よく考えて、その夜就寝前に志願するか否かの決意を紙に書きしるして出すようにと言われた。しかし実のところ考えるといっても何をどう考えていいかわからなかったと言えよう。のんびりした口調で話すS少佐の声を聞き、やがてその意味を悟った当初、私は自分のからだが宙に浮く感じを持った。なんだか世界がぐらりと傾き、それまで見えていたのとはまるでちがった顔つきとなっていた。特攻隊などはるかな他人事であったのに、まさかまともに自分の頭上にふりかかってくるなど思ってもみないことであった。急に入江の海や周囲の山の姿、そして雑草や迷彩を施した学生舎の粗造りの木造の建て物にまでへんないとしさを覚えた。実はS少佐の言葉を聞き終わったときに既に、私は結局は志願してしまうにちがいない気がしていた。するとたちまちのうちにも出撃命令がかかってきそうなせわしない気分になった。もうこの世を捨ててしまったのだから、早く整理しなければいけないとせきたてる声が聞こえていた。なにをどう整理していいか、わかったわけではないのに。”
誰でも危機に陥ることは人生の中でしばしばあることで、今まで経験のない取り返しのつかない深刻な状態に直面するとまず、このような感慨に襲われることは基本としてあり、それが死となると、いよいよ来たかという発狂しかねない極限状態が一瞬で人間を変えさせてしまうことが伝わってくる。
“私は誰とも顔を合わせたくないと思った。そしてふらふら構内を歩いてばかりいた。どこに行っても学生の姿があってひとりにはなれなかった。そうだ、ひとりぼっちになろうとして一度は崖下の磯の岩のあたりに行ったのだった。しかしそこにも先におりて遊んでいる学生が二人居た。仲良く岩間の海底からうにを取って食べていた。それを見て私はそんなふうな仲間は居ないのだなと省みたのだったか。しかし実際は仲間を避けて一日中ひとりで居たかった。もっとも限られた区域内での集団生活でそんなことのできるわけはなく、ふと湧きあがる嫌悪の感情があった。仲間からの話しかけも頑なにはずしていたのだ。みんな寂しそうに見えてやりきれなかった。”
まるで自分を見るようだと思いそうになるが、文章を好む人間は多かれ少なかれこのような性質を持っており、この作品で描かれる志願までの実態は、これが誰しも似たものではなく、一人一人まったく異なった感情の推移があるだろうと、一つの個性の形式的な具体例から想像させられる。
自己を探り、冷静に研究するような興味深い心理描写となり、もちろん戦争反対などと直接に訴えない空虚な雰囲気が漂い続けているから、やはり文学作品としての色は備えているらしい。
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