8月30日(日) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「檀一雄の『母』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「檀一雄の『母』」を読む。


書き出しから四人の、いやもしかしたら五人の母がいたと教えられるこの短編作品は、約10ページの分量を持ち、朗読でそのまま意味を飲み込むにはやや婉曲があり、歩をゆるめて字面を追わないと解せない箇所が最初から登場する。改行が多く、○で大きく段落分けされる回数も少なくない。


愛についての見解が述べられると、それが正義と結びつけば居丈高になるとあり、素直に大切だと言わない皮肉な視点は直言しない文体通り提示されていく。続いて母の生家がある久留米の自由で新進な気風の土地柄が述べられ、対蹠として保守的で質実な柳川の世間が書き手の好意を持って書かれる。


いわば思い出話のこの作品の色合いはさらに強まっていき、父母の関係性に併せて男女の距離感について意見が述べられると、自身の子供の頃の記憶が連ねられていく。そこには小さい頃からすでに両親から違った人物として仕切りを作られていて、姉妹は父親に打擲されるなどするが、ほとんど怒られずに置かれていた特異性が明らかにされる。ただし、これは透徹な視点ではあるが、多少自己憐憫を持っており、そこに周囲とはまるで異なった性質が普通としてある自身に対する孤独感と、一発ぐらいは叩いてもらいたかったであろう寂しい心があるだろう。


後半に両親の人物像が会話文も含めて色濃く描かれていくと、寺の近くの池に子供達を連れて数時間立っていた母親の内面や、走馬燈を作る母親に向かって話しかけるしつこい父親と、それを皮肉を持って受け答えする姿など、男女間の意味あるいざこざと、理屈ではかれない誤作動が場面として描かれ、博多人形の寓意でもって凄惨になりかねない一幕で釘を打ってからニヒルな思い出話は終了する。後年になっての振り返りだからこその泰然とした分析があるものの、時折なつかしく語られるところもあるので、誰もが持つ素朴な少年時代の味わいの情景はやはり登場する。


“ 外祖父の家は生一本で、理想主義で、虚栄に堕ちる。社交好きで、その癖、すぐに厭人癖に陥りたがる。現に私の生母の母は自殺を遂げた。

 これにくらべると柳川の家の生活はユーモアがあつた。精気があつた。余力があつた。土瓶の蓋なぞは破れれば平気で替蓋をしたものだ。うどんはホートン式の煮込みである。玉葱、人蔘、馬鈴薯、蝦なぞをドロドロに煮込んでゐた。

 外祖父の家では、うどんは一度サッとゆがいて笊にとり、都会風に、おひたしをかけ、ワケギを刻み、山椒の葉つぱを散らしてゐた。

 私は柳川の家と久留米の家を絶えず往来してをつたから、双方のうどんのうまさを知つてゐる。いづれに軍配をあげるか迷ふのだが、庭の濠の上に涼み台をしつらへて、葦のそよぐ川風に吹かれながら、粗悪な欠けドンブリに山盛りの熱いダゴ汁(煮込みうどん)をフーフー吹いて食べてゐた柳川のうどんの方がなつかしい。”


などは、一方的にならずに双方の味わいを子供ながらに感じ、平等において、自身の気質との相性が湯気や匂いを伴って描かれている。


“「一雄。女房を貰ふなら何としても処女を貰へ。一度男を知つた女は、すぐにぐらつきやすいからな」

 これは、私の父が口癖のやうに私に語つてきかせた親父流の体験の言葉である。一敗、地にまみれた時の父の忿懣の気持はよくわかる。それを生理的な条件に転化しようと考へた動機もよくわかる。

 ただしかし、私は生憎と全く反対の意見を持つてゐる。男女と云ふものは、そもそも絶えずぐらついてゐなければいけないものだ。

 かりに男であれ女であれ、相手を縛つたり、固定したり出来得るものではない。

 若しこゝに美しく結びあつた完全の夫婦と云ふものがあるとするならば、それは、ぐらつきながらも、しばらくお互ひの心情を信じあつてゐると云ふことだ。

 絶えずぐらついてゐるこの裏切りやすい肉体がなかつたなら、そもそも信じ合ふといふことの本当の意味はわかるまい。

 心情と精神の真価を知る為にも、男は女を知つてゐる方がよろしいし、女は男を知つてゐるがよろしいだらう。”


という男女の真理を突いたこの見解は自分も賛同するところで、母親が四人、もしくは五人も持った人物だからこその客観的な解析は、父親がいかに実例を持って縛れば縛るほど離れる関係を実相に現していたか知れるところだ。


“ これもまた私にとつては、だるくて重い人間の出来事だ。まさか十歳に足りなかつた私が、火星人だとか、仙人だとかになつてゐた筈もあるまいが、例の情熱の比較計量学とでも云ふか、父と母のそれぞれの持分の不幸と、それを無理に持ちよつて、家庭と云ふ一本の無気力な棲息の状態をつくつてゐるそのみじめさを、腹だたしい程に感じとつてゐた。

 ひよつとしたら私は、肉親の愛情と云ふものを学ぶずつと以前に、それぞれの人間の置かれてゐる状態を透視する術を学んだかもわからない。

 彼等を蔽つてゐるものは、まぎれもなく市井人の呪縛である。

 その呪縛がなぜ断ち切れぬか──、大人共の無気力と怠惰を、私はその一点で、憎むのである。”


などは、そんな透視術を持っていなかった自分には驚愕に値するが、両親に不和があると、自然に子供はそれを察知する能力を得る傾向にあるのは、夫婦それぞれが相手を探る状態に置かれているからではないだろうかと結びつけてしまう。


“ かうして私達の一家は、梅林の近いその山中の寺の離れに引移つていつた。

 父が数へ年の四十一歳だ。母が二十九歳だ。とちらも巳年生れで、蛇と蛇は、相手の尾から互に呑み合ひながら共倒れに終るものだと、これは両親のどちらかが、私に云ひ聞かせたに相違ないから、夫婦の間には、かなりな動揺と、破綻の予感、乃至焦躁が、深刻に喰ひ入つてゐただらう。

 それにもかかはらず、この時期の父母は、二人揃つて出掛けるときなぞ、少年の私の眼から見ても及びがたくなまめかしい男女に思はれた。

 生理的な最盛期にあつて、絶えず挑撥し、絶えず反撥し合つてゐる盲目の肉の恋情……といふより人間の最も裏切りやすい靱帯に、はかないその日その日の幸福をかけついでゐるやうな危ふさであつた。”


というところに、安定とは遠い状態にあると、どうにか取り繕おうとする本能が働くのだろうか、戦いあう姿にある種の美や誘惑が備わるように、それぞれの存在の危急まではいかないが、安穏にはない汗をかいて生きようとする精力が表れるように思われる。


作家の存在を消した描写よりも、個人の観察鋭い短編作品ではあるが、このような一人称は自分の好むところで、少し複雑な文体の中に自然の風物が人間を偵察するような達観した眼は、とても冷たくはあるが、含蓄を多く含んでいる。


この作家が直木賞をとるのだから、二つの有名な賞だけで的外れな位置を多くの作家に置いていると知らされる作品だった。

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