8月12日(水) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで森弘太監督の「河 あの裏切りが重く」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで森弘太監督の「河 あの裏切りが重く」を観る。
1967年(昭和42年) フィルム新映人 103分 白黒 35mm
製作・脚本・監督:森弘太
撮影:高田昭
音楽:一柳慧
照明:村瀬信夫
録音:鈴木康夫
出演:灰地順、富田公子、佐藤慶、浜村純、芹川洋、原泉、坂上和子、沖野一夫、小山源喜、福山靖人、兼田晴臣
珍しく観ていて苦しさを覚える作品だった。オープニングから早い呼吸のリズムでスクラップが編集されてから、物語に入りづらいカメラワークで人物が現れて進むと、映画らしい物語は感じられなくなっていった。
見苦しく、聞き苦しい。そんな単純な感想が途中に何度も浮かぶほど上下に細かくぶれるカメラがあり、実際の映像を挿入して編集したドキュメンタリーらしい原風景に、やたらズームして動かす役者の苦しい演技などがある。それに加えて、トーンやノイズ、もしくは鐘の音などの一音が電子楽器で発せられて、それがしつこく、不愉快ではなく、はっきりと不快に感じる場面がいくつもあった。
宇宙を感じさせる浮遊した音も多用され、物語の連関を感じにくい断片的な演技での人物のやりとりは、時折音声が重複したり、口の動きに台詞が合っていなかったり、音が大きくなったり小さくなったりと、録音状態にも疑いを持つほどで、全体として非常に不安定な映画作品となっている。
ただ文句と不満を長く述べることができるほど個性的な作品であり、実験的という形容が似合う前衛的な意図はあるものの、すでに半世紀以上過ぎた自分が観て思うのは、その試みはあまり効をそうさず、むしろ小賢しさのオンパレードとなり、原爆から20年経過した広島の内容をいくつも描いているのだが、表現方法のある種のあざとさがむしろ証言の内容を遠ざけている節もあり、素直に被爆とその経過の苦悶を感じることは難しかった。過剰こそ正しい演技かもしれないが、その執拗さにズームとパンのいやらしさが目についてしまい、むしろ嘘くさい作り物だと集中力が失われてしまう。
中途半端な物語を加えたことが失敗と断定したくなるほど、編集はたまに明かりの点く電球のように切片を照らしていて、一体この人物達は何をしているのかと疑ってしまう。もちろんストーリーはあるのだが、実際の広島の映像のほうが格段に魅せる力を持っているので、正直演技も含めてどうでもよくなってしまう。映画らしい形式の運びを持たない作品として、ふと思い出したのがセルゲイ・パラジャーノフ監督で、どんな内容かわからないながらも圧倒的な映像美によって叙事詩ではなく、象徴としての詩情に眠気と共に強く引き込まれるが、今日の作品には構図とセットにそのような美はまるでなく、あるのは現代音楽らしい不気味で理解しがたい不協和音にもならない混乱で、それが優れているというより、技術と意匠でごちゃごちゃになってしまい、コンセプトアートのような理屈だけで生み出された雰囲気を持ってしまっている。
早く終わらないかと時計を何度も観たのは、そうそうないことだ。くだらない短いフェードアウトの連続や、口は動いていながらの音声の消去、それに効果的と思えないハレーションなどもあるが、時折ぐっとくる映像に目がつかまれるのは、ただ映したその当時の広島の景色だった。
映像資料として価値があり、試みとしてのおもしろさもたしかにある。ただ、原爆について様々に実感して考える作品としては無駄な要素で固められていて、もっと素直に子供でもわかりやすく感じられる方が、継承としての意味は大きいだろう。要するに、映画表現としての意欲が強すぎて、かえって扱う題材をぼかしているのだ。
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