8月8日(土) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「川崎長太郎の『夜の家にて』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「川崎長太郎の『夜の家にて』」を読む。


この作家は、自分の持つ読点のリズムと合わない。だぁぁっと伸びる音節の連打がなく、一呼吸一呼吸置くよりも、肺の弱さに喘いで息継ぎする分断がある。そこへ写実描写に貫徹した順々に運ばれる物語がはめられると、美はまるでなく、余裕にもったいぶった諦念などなく、息苦しい重さが淡々と続いて目を背けたくなる。


昔の自分にも必要と思えない写実を好む癖はあるが、短編作品に町の通りや部屋の造作などを細かく描くのは、今の自分にとっては志向するところが違うのだろう、雰囲気を伝える手段として効果はあるが、分量を単に増やす為の逃げとも見ることができてしまう。ただそれは自分の中だけのことで、この作家の描写の傾向は読み進めていくうちに迫力を増してきて、下手な心理分析を盛り込まないことで、精力を失った冷たく萎む内容の味気なさが伝わってくる。


言ってしまえば、風俗店におけるインポテンツを物語っており、そういう趣味がある人にとっては感慨深い内容になっているのだろうが、例えば良い車を購入できずに嘆く人を理解できるが同感できないように、同じ男性でもまるで異なった面を向いている話となっていて、その違いがこの作品に対しての皮膚の合わない実感を生んでいる。


形式ぶった美への空虚な愛好よりも、この作品は現実の一幕をありありと描いている。地の文の重苦しい足取りの途中に挟まれる会話文は、中身がないとしか思われない言葉の選び方があり、加齢臭とにやついた初老の小便臭さがにじむ嫌気のさす空々しさが浮いていて、およそ意味がないと思われる会話だからこそ、金銭での性交渉の関係を浮かばせるそっけない色合いを纏っている。


“六畳の部屋で、北側はガラス障子で塞がり、上つて右手よりの、三尺の床の間には、桔梗と女郎花が生けてあり、隅の方に、桐の箱にはいつた、大きな人形も飾つてあつた。床の間の続きは、唐紙襖のはまつた押入れらしく、隣りの部屋の境にも、やはり白つぽい地に、草花模様を散らした襖であつた。そこへ、背中を押しつけたやうに、小さなテーブルがひとつ、上には箱根細工の灰落しに、掌でふたの出来さうな、朱塗りの円い鏡が、同じ色の台に立つてゐるのが、載つてゐた。”基礎知識がなければさっぱりわからない部屋ではあるが、言葉の響きだけでなんとなく感じられるのは謡曲や浄瑠璃にも通ずるもので、“黒い、たつぷりした髪を、電気で縮らせ、前の方をとさかのやうにおつ立て、顔は旧式な瓜実顔で、爽かな地蔵眉、鼻すぢもすつきりとほつて居り、紅の口元にも、しまりがあり、切れの長い眼に、濁りのないものがみえた。額の、目立つて狭いのが瑕で、それを髪の恰好で、工合よくしてゐるやうであつた。えりおしろいしてゐない女は、細い首のつけねあたり、浅黒い素肌をのぞかせてもゐた。”なんかは、綺麗なサザエさんを想起させる。


 “川上の言葉に、「みえ」は切れ長の眼をぼんやり見開いた。間を置いて、何か合図するやうに、肉づきのいい肩先きを揺するのであつた。それから、右腕をのばしてき、指先きで、ある仕科を始めた。彼女がつとめ、彼があせり気味になつても、しんまで冷えきつてゐるやうな肉体は、中々のことでは、二人の思ふやうになりにくかつた。

「駄目ぢやないの。」

「うん。」

 寒さに、向つてから、既に三度ばかり、彼は不覚をとつてゐた。今夜も又、と、川上は半泣きといふところであつた。たうとう、「みえ」は匙を投げ、その手を放してしまつてゐた。

 前にも、してみたやうに、川上はやせた体をほぢるやうにしたり、いろいろするのであつた。

 ハアハア、熱い息を吐きながら、懸命になるその恰好がみて居られない、といふやうに、「みえ」は絞れば染色のしたたりさうな長襦袢の袖で、自分の顔を隠したりした。

 彼の苦しげな操作は続いてゐた。時々、思ひ余つたやうな声を出し、それでも執念深く、目的をとげようと、その額には、あぶら汗までにじみだしさうであつた。”これには苦しいまでの性欲の達成までが豊かに描かれていて、滑稽なまでに笑えない。


ありのままを描く私小説に好みがはっきり分かれるのは、実生活での個人との関係と同様に、好きか嫌いかのどちらかに偏り、そうでないどうでもよいと思える作品は、そもそもこの本に掲載されないだろう。文体も描く内容も決して好むところではないが、作品への姿勢は嫌いと打ち捨てられない誠実な点があり、戦後の暗さが染み込んだこの物語はもう少し歳をとってから、実際に身と感じることになるだろう。

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