8月2日(日) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「尾崎一雄の『こほろぎ』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「尾崎一雄の『こほろぎ』」を読む。


約7ページと少なく、こほろぎに始まり、日記に病を思い返し、再びこほろぎにつながって小さい命と尽きた心に思いを閉じる内容となっており、この時期に読むべき内容として、昭和19年という言葉が、最近観ている映画と結びついて物語に立体だけでない情感を広げた。


こほろぎを発端として、記憶の断片から心境が語られる流れに難しさはなく、文体も丁寧で読みづらいところはない。虫に興味のない者にはわからない名前も出てくるが、会話文も含めた全体に我が子を見守る愛情が臆面なく表れていて、最近観た「火垂るの墓」がところどころに接合する。小さい女の子が小便をするのに防空壕から出る光景は、もうそのまま映像が頼りとなっていて、余分な情動を生んでいる節がある。


こほろぎといってもエンマコホロギではなく、寒さを呼び込むという種類で、おしっこをひっかけられたその虫が呼び水となり、発病、追憶、その連関による子供の思いなどが、衰微した戦後の心身と混ざり合って所感が述べられる。時代と虫に自他が重ねられるその諧調には、戦争を経験した者だけが持つ蝕まれた諦念があり、静々としたその雰囲気は小説家と病気というこれ以上なく良好で珍しくない肉体と精神の複合から生産された内面が単純に表れていて、水面に自分と木立、それに空と月を虫の音と共に達観するような心持ちとなっている。


“さうと決まれば肚は据ゑた、とでもいふやうな四ツの子供の様子に、私は安堵すると同時にいぢらしさを感じた。私は子供に手枕をし、布団をかけてやりながら、静かなかなしみに落ち込んで行くのだつた。

それは、われながら、平凡で単純な感情だつた。あらゆる可能を信じ、野心で胸をふくらませた若い頃であつたら、無理にも鼻であしらはうとしたに違ひない風情であつた。しかし私はもはや、自分の偉くないことを身を以つて知り抜いた、病弱な初老の男なのだ。身の程を知つたからには、身のほどだけの矜持はあつても、それからはみ出した見えや外聞は、自分自身に対してすらもつ気がなくなつてゐる。”無知こそ若さ、などと魅力を讃えたくなるが、わきまえることが無難に生きる方法ならば、やはりそれは脇道にそれない為の利口な計画と、老いにも思えてしまう。


“そんなことを云ひながら私は、自分がこの頃、虫だとか草だとか、そんなものに心を惹かれがちなことを思つてゐた。害虫駆除だ、などと云ひながらも、関心を持つのは野菜畠にかかはりのある虫だけとは限らなかつた。小さな虫ども、わけの判らぬ雑草たち、そんな、今まで気にもとめなかつた小さな弱い者たちが、小さいなりに元気よく動き廻り、生きて居、謂はば生存を主張してゐるのを見ることが、何か嬉しいのだ。それを見ることによつて、私はある安心を感じてゐる──と、さう云へさうなのだ。

つまり、俺は、弱つてゐるのだ、参つてゐるのだ、と私は思ふ。一番判り易いところでは、身体の衰へに因るだらう。これは目に見えることで、ごまかしやうも無い。次には、戦争に敗けたこと、そしてそのあとの世の様、これが気力を萎へさせる。新生と再建がしきりと云はれ、私といへどもそれを思ふことでは人なみと信じはするが、実際上手も足も動かぬ状態なのだ。”取り残されるものの足掻きに似た心境ながら、自覚している。


“「私の生涯は『出発まで』もなく、さうしてすでに終つたと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない。」

去年の秋、私はある雑誌で、K氏の右の言葉を見つけた。戦終つて吐かれた作家の言葉のうちで、最も美しいと思つたものの一つであつた。が、新生、再建の逞しさを、ただいたづらにのぞみ見るだけの今の私には、K氏のこの言葉にもまた羨ましさを感ずるだけである。この言葉には、有情極まつての非情鏘乎たる響きがあり、歯切れがよく、むしろ颯爽とさへしてゐる。激情と非情の間、凡情にまみれてうろうろしてゐる私には、こんな水際立つた言葉は吐けない。私の仲間は、小さな弱い生きもの共だ。──私は、もう安穏な顔で寝入つてゐる子供たちをふとかへりみた。今小さく弱いこいつらは、いつたいどうなつていくのだらう。それを俺は見届けたい。俺が居なくなつたあとどうなるか、といふ心配ではない、こいつらがこいつらなりに有ついのちを、どう生かしていくか、それを見届けたいといふのだ。そして、こいつらは、日本の子供なのだ。だから俺は、何ものにも何ごとにも、非情になれはしない。”これだけの多感と達観をどれだけの人間が思い抱けることだろうか、こんな迷いを決別として吐露できるだけで、いかな人間かが窺い知れる。


虫と子供、それはそのまま、近頃観た映画そのままがあてはまり、自分のまわりの大切な人間への思いと同調する。

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