7月11日(土) 広島市中区八丁堀にあるサロンシネマでポン・ジュノ監督の「母なる証明」を観る。
広島市中区八丁堀にあるサロンシネマでポン・ジュノ監督の「母なる証明」を観る。
2009年 韓国 129分
監督・原案:ポン・ジュノ
脚本:パク・ウンギョ、ポン・ジュノ
撮影:ホン・クンピョ
美術:リュ・ソンヒ
音楽:イ・ビョンウ
出演:キム・ヘジャ、ウォンビン、チン・グ、ユン・ジェムン、チョン・ミソン
これで4作品目の鑑賞となるポン・ジュノ監督となるので、さすがに耐性がついてきた。今日の作品も大きさと深さはこの監督らしい上質があり、一筋縄にいかない転々とする展開があるものの、上映後のひどい意識の喪失はなかった。
だからといって作品そのものが弱いわけではなく、「殺人の追憶」とは色合いの異なる内容となっていて、エンドロールを眺めながら“ドラマ”という言葉が浮かんだ。この単語がどう意味するかは世間の定義とは別に、ギリシャ神話から続く数奇な運命の中の人間性に迫った物語という意味で浮かんだ。
隠れる、忍び足で逃げる、跳び蹴りをする、雨の中を走るなどの演出が同じように散見され、貧しい家庭を扱って食事を絡ませるのも基本要素として通底している。ただ、この映画はその家族の関係が偏愛として結びついているが、腹を痛めて生んだかわいい我が子という自然本能がなんら不自然なく描かれている。それは母親のクローズアップによる澄んだ目と、ゴルフ場での焦点のあたった息子の顔に同質のまなざしがあることに示唆される。汚れを知らない瞳は疑いなく母親ゆずりのもので、頑迷直情に息子へ愛を注ぐ眼は、光の当たる横顔から映すとその狂気が膜にありありと盛りあがっている。
友達らしい関係の真偽から始まり、およそ人の言動というものに真実は存在するのかと投げかける物語は、やはり藪の中らしいゆらめきでぼやけてしまい、表面の裏にある顔と行動は、かわいい顔してあの子わりとやるもんだねと、記憶が確かでない歌詞のように不確かに思われる。事物の連関は汚れの中に成り立ち、どうしたってきれいだけではつながりきれない汚れた川の水面と水底のように世界は成り立っていると思わざろうえない。
便器に顔をつっこんでゲロを吐いているときに、便座が降りて後頭部を打つような細かい演出が細部を飾っており、それは台詞の幅広くに息づいている。人工の風景であるからこそ砂と池が棚田の美しさをみせたり、激しく火で燃えるまでの危険なシークエンスなど、とことん奥まで手を伸ばしたショットは少なくない。そして、役者の技量とアクションの生々しさは変わらない水準でこちらに痛みを覚えさせる。
構図の美しさや構造の緻密さなどを含めて、とにかくこの監督は規模が大きい。ただ画面を綺麗にさらす美ではなく、存在としての人間の有り様を柱に映画で描いており、それは戯曲の持つ崇高な芸術性をそのまま継承しているだけともいえる。その中に細かいユーモアなどが含まれるのは、結局人間をテーマに扱って表現するのに必要なだけであって、ジャンルなどの枠をそもそも考えず、言葉はおかしいが、人間への愛を持って芸術作品を打ち立てている結果なのだろう。
偉大な作品を作る人は、連続して偉大な作品を作り続けることを、真に納得させられる監督だ。デビュー作品以外にも存在していた瞬間的な衝動を描くまでの運びは神の力を感じるほどで、アキレウスの憤怒と同じとは言えないが、動物ではなく、人間だからこその性質を描ききる力は永遠に近いほどの水準がある。
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