6月21日(日) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでジュディス・デイビス監督の「マイ・レボリューション」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでジュディス・デイビス監督の「マイ・レボリューション」を観る。
監督:ジュディス・デイビス
出演:マリック・ジディ、クレア・ドゥーマス、メラニー・ベステル
テレビやインターネットの中だけでなく、店や劇場などでも政治批判をしている人たちがいる。そういう人たちの話を聞くたびに率直に思うのが、一体どうして政治家の悪口を言いたがるのかということだ。これは芸能人の不倫騒動にもいえることで、これが身近となると社内の噂になるらしい。つくづく思うのは、多くの人は好奇心を持って会ったことのない人を、それもほとんど知らない人を、国籍や職業だけで悪口を言っている。これは対象とする個人よりも、肩書が生み出した概念に向かって放たれる悪罵のようで、鳩の交尾に人々が囲い、邪魔にならない距離を保って口々にその行為を腐すようだ。
芸能人の不倫とは異なり、政治となると政策が実際の生活に関わってくるから、自分のような無関心は本来良くないのだろうが、ほとんどわかっていないのに声をあげるよりは黙る方がまだましな気がしてしまう。声を出すなら、憂さ晴らしなどではなく、意味を持っての発言が必要となり、がやがやするくらいならば、面と向かって言うような実際の行動が大切になってくるので、そうなると全か無かのような姿勢になるのだろう。
話は逸れたが、この映画の女性主人公の憤りは、およそ今の自分には縁のない問題だった。すこし前に蓬莱竜太さんの戯曲作品で活動家の今と昔を扱った内容を読んだが、それとはまるで異なる過激なエネルギーの放散だった。両親を継いでの活動は、蓬莱竜太さんの別の戯曲作品ではむしろ宗教活動として子供に影響を与えていて、この映画でも家族関係に焦点が当たっていた。
カメラワークや編集を気にするよりも、恋に夢見て勘違いする痛ましさではなく、活動に熱心になって常軌を逸する浮き世離れに呆れてしまうほどだった。巧妙な台詞による冗句は鋭く、“サクレ”と連呼する詩吟には笑いが漏れるほどの効果があり、頭の働きがあまりに活発だけでなく体力もあるせいで、それぞれの個性が強いように見せながら、実際はないことも皮肉っているようだ。特に子供たちの描いたソーセージの壁画を見て、メタファーを探すところなどは、活動家には斜めの視点しかないことを揶揄するような可笑しさがあった。
どんなことでも熱心になるのは大切だ、なんて思うが、活動はどうだろうか。蓬莱竜太さんの作品でも活動を途中で辞めた人物が登場していたが、この作品でも両親は活動家の面影など残らない一般の人として現れている。活動は単なる夢想でしかなく、世界の変革とは単なる個人のたわごとでしかないのだろうか。
とにかく、この映画の語ることが自分にはあまりわからなくても、家族から始まる人と人のつながりこそが根本であることを証明しているようだ。痛みや辛さを持ち、そのはけ口として仲間になるにしても、それはそれで良い悪いとか、強い弱いを抜きにした集団として認められるべきなのだろう。
こう書きながら、そんな集団を見下す自分が日頃存在しているから、口と行動はまるで異なっている。いわば嘘つきか誇大広告だ。まったくの無関心は良くないから投票に行っているが、少しだけ普段の自分を反省してしまった。とにかく、政治家でも芸能人でも、身近な人でも、陰口はなるべく自分の頭にとどめておき、次は、ほとんど関係しない親しい人に少しこぼすくらいで、有名な遠い人のプライベートの事件は、近くの池の蛙が交尾相手を代えたくらいに思って、わずかな関心のみで悪口を言うほどのことはないだろう。映画作品とは関係ない感想が浮かぶほど、真面目な女性の生き方が描かれていた家族と闘争の映画だった。
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