6月21日(日) 広島市中区大手町にあるイタリア料理店「ヴェーネレ」で前菜付きランチを食べる。

広島市中区大手町にあるイタリア料理店「ヴェーネレ」で前菜付きランチを食べる。


昨日観た映画に、厚着した雪山のリゾート地でたくさんのマッシュルームがのったピザを食べるシーンがあり、あれではすぐに冷めてしまうと思いつつ、明日のランチにピザを食べようと決めた。


とはいえ、グーグルマップで探している間にピザからイタリア料理と気が変わり、気になってはいたが入ったことのない「ヴェーネレ」に行くことにした。


前菜付きランチにラザニアを選んで待つと、乾いた空気が快く、風も吹きっぱなしよりも時折さっと過ぎるような今日の日に、とびきり合うシチュエーションとなっていた。豪華に飾るよりも、天井の地肌が残る白い漆喰などの造作や、グリーンのペンキ塗りらしい色合いの店内は、橋近くのイタリア料理店とは異なったより家庭的な雰囲気があり、たしかに、自分は海外旅行の最中にこういった店で腰を落ち着けた記憶があると思い出された。


挽き肉を巻いたという冷たい鶏肉に、生ハム、ベーコンのキッシュ、エビを揚げて酢漬けした皿を前にして、すでにずいぶん飲んでいたが、白のハウスワインも頼むことにした。


こんな時、気分がすべてなのだと気づかされる。美味しい料理がどのような影響を与えるかというと、単に気分を良くさせるということであって、味覚ではなく、空間と環境、ここに至るまでの過程などを総合しての自分の気分こそがすべてであり、疑うことなく、他に客のいない音が生きる店内環境は最上にあった。


昨日聞いた話で、知らない誰かがその土地の料理を振る舞ってくれたが、同席していた客の一人は、言葉が通じないからといって不満を言っていた。大切なのは、料理の情報だけを言葉で知ることではなく、作り手やその準備など、また料理の味やそれを食べてどのように作り手が反応していたかなど、味わうべきことはいくらでもあるのだ。喋る言葉が大事などと思っていては、目の動き、一つのため息、首の傾げ方など、むしろ肉体表現での会話にこそ感覚としての同調があるのに、言葉に頼ってレシピを盗もうとばかりしていては、いったいどのようなコミュニケーションがとれるというのだろうか。


ラザニアが運ばれてきて、口にすると、やはり昔がよみがえる。イタリア料理で最も好きだったのがこの料理で、どこかレストランに家族と入り、この薄っぺらいものを重ねた料理がメニューにあれば、即座に注文していた。


熱い鉄板にのった厚いトマトソースを口にして、豊かな風味を味わい、上部のかりっとしたチーズも重なる生地をナイフで切って口に運ぶと、ミートソース、というおふくろの味ともいうべき優しく甘い挽き肉とトマトの味わいが多くを思い出させる。コルフ島で食べたナスの入ったムサカや、ザグレブの簡素な店で食べたテイクアウトらしいラザニアなど、それにピミエントの辛みが入ったソースにモンテネグロで食べた手作りのアイバルなど、その前後に出会った人は多く言葉は通じなかったが、唯一とも思える意志疎通の手段をほじくるように介して、思い出を教わった。そこには、一面的であるにしても、決して間違っていない相手の人柄が備わっている。


川面を目にしながらゆっくり食事して、瞬間的な時間の中で多くの個人を楽しんだ。大切なことはなにか、それがあまりに多くてついつい一つばかりに目を奪われてしまうのだろう。


他に選択肢はなかったと思えるほどに、このランチ時間は貴重なほど自分を味わわせてくれた。

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