6月14日(日) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「内田百間の『他生の縁』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「内田百間の『他生の縁』」を読む。


この方も名前は知っているが作品を知らない作家だ。約5ページのこの作品は、昨日読んだ岡本かの子さんに比べると中身が薄い。小説作品としての構成や文体に凄みがなく、活写とはいえない群像の描写となっていて、場面や状況背景の運びはややずさんと思えてしまう。ただ、厳密な構造を視点に置いての感想であって、力の抜けた筆の運びらしいスケッチの中でも物語はしかと知れるにしても、そもそも回想をただ書いただけの内容となっているので、そこには創作らしい研ぎ澄ます意匠はなく、この作家の他の作品を知っているのならば、おそらくこの瀟洒な作風に思うところがあるのだろう。


番号が書き出しから表れて、これが何を意味しているのか少し待たないといけない。下宿部屋の番号に一癖ある人が宿り、老夫婦と女の子、私、自殺を企てた若い男、満州から事業を起す為に出て来たという二人連れの紳士、私立大学の学生などがそれぞれ番号を持ち、お神さんの親類の娘や下宿の主人との関係も描かれている。それらがただ思い出して書かれたような配置となっていて、布石や回収といった技巧の味は見られない。後半に挿話の分量が多くなっているくらいで、作為らしい盛りあげはなく、自然に話を落ち着けている。これを味気ないか、風流というかは好みによるだろう。


気になった箇所は。


“五番と云ふ数は、職人のつかふ符牒の「ホン、ロ、ツ、ソ、レ」のレに当たるので、私は五番の奥さんを「レ婆」と名づけて、英語の様にレバーと呼び、御主人は「レ爺」だからレヂー、大きな娘さんは「レ姉」のレネーと云ふ事にした。”これは誰にでも備わっている普遍的な性格としてあり、これがあるからこそ人は名前を得ることになるのだろう。実際、マンションの住人に名前をつけている自分があり、自分もどこかで名付けられていることだろう。


本式の御膳を出す事に決まった下宿人に電話を壊されたことに対して、“──旦那はだまつてゐるのかと云ふと、旦那は、困るには困るけれど、ああ云ふ気象の真直な人は、人を信用し過ぎるから、一寸話が間違ふと、すぐにかつとする。あの権幕では向うの相手も考へ直すに違ひない、電話では埒が明かんから、行つて話しをつけて来ると云つて出かけられたから、何とか纏まるだらう。それが駄目だとしても、今晩見えるお客様の中に、いくらも出資者はあるのだから、そんな相手はほつといてもよささうなものだが、そこがああ云ふ方の気象なのだからねと云つて、大変な肩の入れ方ださうである。”なんかは、お人好しではなく、根拠のない買い被りで、こんな時は大きな損をすることが面白く表されている。


それほど味の詰まった作品ではないが、誰でも昔の住まいには思い出深いものがあるので、その心持ちを知れる内容だった。

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