5月31日(日) 広島市中区大手町にある原爆ドーム前のベンチに座る。
広島市中区大手町にある原爆ドーム前のベンチに座る。
誰にでも習慣があり、意図せず、意識してそれが切れる時はある。昨日がその日で、いつ以来かわからない、まる1日1文字として文章を書かない1日となった。
そんな翌日は、なんだかひどく戸惑っている。天気予報はよくわからず、雨がやんだみたいなので外に出れば、雨は降りだし、傘をとりに家に戻って出ればやみ、原爆ドーム前のベンチに座ればまた降ってくる。蒸し暑いのか、それもわからない。
昨日の昼からもそんなだった。風邪かと疑う自律神経の乱れがそれで、暑いはずなのに寒気がしてやまない。熱い飲み物を飲み、上着を着て汗は出るのだが、首筋の寒気がおさまらない。そんな時は元気のない時だろう。
はじめてのおつかい、そんな言葉を繰り返した。はじめてのお義兄さん、それを初めて体験した気になっていた。末っ子は弟か妹を欲しがるものだろうか。そういう人もいるだろうが、一度たりともそう考えたことはなかった。上がいる、それで十分だったのだろう。
ウィーンから始まり、妻の実家の帰省、一番下の義妹の結婚式でのハワイ旅行の時の山登り、今の家に外国人ゲストが来ていたときの中華料理の晩餐など、ことあるごとに真ん中の義妹がいた。新しく縁を結ぶことは、形式から始まるとしても、それから少しずつ関係を築くことで、家族は一日にして成らずなどという言葉さえ浮かんでくる。
習慣の断絶が何を意味するかは別として、親なのか兄なのか、どちらともわからない感情を含みながら、未知なる恐れを克服するように、まるで映画のように特別な時間を送った。現実感はないが現実感はある。それが過去から今へとつながる経験の連続による一断片なのだろう。
とはいえ、兄よりも爺さんになったようでもあった。長い滞在ではなくても、一時の義妹の訪問は自分自身にも一休みになったようだった。文章を書かないことへの焦りは習慣からの責め苦のようであっても、それだけがすべてじゃない。長く短い人生で考えなくても、週や月単位で考えれば、この時間が特別な意味を持って自分の血肉となる。それに書かなかった分は先に得ていたのか、それとも来週ぐらいに取り戻すのか、だいたいのことは遅かれ早かれ決まっている量に帳尻を合わせるだろうと、傘を肩に差しながら一日振りの文章を書いて、できるかと恐れていた習慣が戻ってくる。
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