5月24日(日) 広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「鄭 義信『赤道の下のマクベス』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「鄭義信『赤道の下のマクベス』」を読む。


監獄という閉鎖空間は、物語を描くにしても舞台演出をするにしても、好都合の一つとして思われる。そこに収監されるのが死刑囚となれば、必然として作品世界は差し迫った物語の流れができあがり、逃げ場を必要としない対面のやりとりによって濃密な場面が続くことになる。便所とは異なる閉鎖されたプライベート空間の重なりだからこそ描き方はいくらでもあり、また難しさがあるのだろう。


社会的という言葉の意味を持っていないからこそ、自分はこの作品を読んで形容の一つとしてあてはまらない選択肢が浮かぶのだろう。実際に舞台で観た井上ひさしさんの「マンザナ、わが町」よりも限られた空間の中で、寓意として「マクベス」が小道具として扱われ、劇が劇であることを偽りなく物語る。ただ、歴史を元にしたこの物語は、まるで原爆を扱った作品のように直接に日本史を考えさせられる内容となっていて、日本人として生まれてきた人間にとっては、責められるというより、二度と過ちを犯さないというより、とにかく考えて考えて、解答できない非常に難しい状況でどのように人間はあるべきか、たやすく実行できない答えは目の前に見つかろうとも、それを如何にすべきか反省しなければならないものとなっている。


これはユダヤ人の虐殺を扱ったドキュメンタリーを含む様々な作品でも問われる内容で、死刑執行人という職業人が仕事に徹したばかりに、後にその事が罪として裁かれるようなものだ。国から与えられた命令が多くの人間を通して末端に伝わり、上層部は罪に問われず、国籍さえ異なる任務に忠実な人々に罰が与えられる出来事は、戦争による犠牲者は第一に一般市民ということの現れだろう。罪と思えぬ罪によって筋違いな死刑を宣告された人間達には、心底から無実だと信じる純朴な者もいれば心の底で罪を感じる者もいて、その程度は様々だが、一様にくくれないあまりに人間らしい精神が太陽にさらけ出された閉鎖空間で嘆き合う。最近の感染症問題のなかで身近な人がカミュの「ペスト」を読んでいて、話をつまみつまみ聞きながら以前に読んでほとんど忘れた内容を思い出しながら、不条理という単語が何度も頭をついてくる。そのせいか、この作品も不条理などと言いたくなるが、そうして片づけてしまうのはあまりに無責任な気がするほどだ。


この人の作品は「焼肉ドラゴン」しか読んだことないが、口の悪い関西弁がなんと味わい深く、熊本らしき方言も土地柄をにじみ出すように生きていることだろう。偏屈な人情のぶつかりを持った人物達が愛らしく、この人物造形に作者の韓国か朝鮮の気質が表れているなんていえば無礼になるだろう。


国籍や国民性は関係ないといえば、あまりに遠いところからの視点になるが、どうしたって関係はあり、だからこそこの人の描く人物は突っ慳貪で優しさが深いのだろう。戯曲としての布石なんか何も気にならず、構成の巧みなど考える必要もなく、作品が訴えかけることなく問題提起する人間のありさまは、まさしく人類の変わりようのない業を扱った作品だ。プーランクの「カルメル会修道女の対話」を思い出し、舞台で観たらどれほどの感情が渦巻くかはかりしれない作品だった。人間は、一部を除いてみな弱く、だからこそ希望にすがりつかずにはいられないと、あらためて見せられた。

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