5月10日(日) 広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「長塚圭史『音のいない世界で』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「長塚圭史『音のいない世界で』」を読む。


喪失と音楽、生きていくのに大切な何かを、純粋な関係がしめやかに教えてくれる。巧緻よりもマテリアルとしての要素がそのままの素材として現出されていて、とても優しい気持ちになれる作品だった。


懐かしさを覚えたのは、個人的な感情だっただろう。最近読んだ本にピグマリオンの話があり、自分の作った像に恋する創作後の姿勢が思い出された。料理でも公共物でも同様で、自分の手で生み出したの物は本人にとってかけがえのない物で、たとえそれが日頃注目されずに自然の風物として手を放れても、作り手としての本人は忘れない。それが作る人の基本の関係と喜びだろう。


そんなことを回想させる、とてもすばらしい戯曲だった。これは子供に開かれた作品とあるが、最近読んだ中でとりわけ心を動かされて好ましく思ったのだから、自分自身が子供なのだろうか。頷けない人は知らないが、もし自分の判断で首を縦に振れなかったら、味気ない気がする。性別、年齢、大切なのは現在生きているその地点だけでなく、前後左右の含みで、一極化も悪くはないが、多様こそ豊かな魅力の一つとしてあるだろう。とある人が旅行に関しての見解を述べていて、安い宿も高級なホテルも純粋に味わえること、それこそが贅沢の一見解としてあり、自分はそれに強く賛同した。


何にしてもそう変わらない。物質の形象という純粋な表現にしても、犬は嫌だけど猫は好き、哺乳類は嫌だけど爬虫類は好き、人それぞれの好みはあっていいが、素直に関心を奪われる人というのは、それぞれの特徴を踏まえつつ個人の広い見解を述べる人で、ミクロとマクロ、近視眼に俯瞰を交えながら、個人と神らしい視点を併せ持つ謎めいたところに魅力はあるのだが、それを恐怖として撥ね除ける人も、やはりいるだろう。


とにかく、この戯曲は純度の高い絵本同様に、大切な事を教えてくれる。登場人物の持つ血肉はただちに感じられ、ユートピアなんて言葉がちょっと浮かんでしまうが、純潔なまでの会話と関係性は、素直な涙へと届いてしまう。


台詞のバランスやユーモアに無駄と嫌みがなく、卓越した才能によって誰にも愛される素敵な作品となっている。やや甘いかもしれないが、旋律は心を素直に触れてくる。ボロディンの韃靼人の踊り、カリンニコフの交響曲第1番ト短調、ラヴェルのパヴァーヌ、などなど、音楽性の高さはなくとも、音楽の魅力はそこにある。


戯曲の魅力はそれでいいのだと思う。子供に開かれたは、いわばそのまま大人向けであり、子供にも触れられる作品を味わえなくなった時には、自身の人間性に面と向かって問いかけないといけない。それは率直に言って、在る種の不幸な状態にあるからだ。ただし、不幸を好き好む人もいるから、人間は簡単には括れない。


純粋な世界に洗われる、心にじかに響く愛すべき作品だ。

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