5月5日(火) 広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「蓬莱竜太の『エネミイ』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「蓬莱竜太の『エネミイ』」を読む。


短編小説を読んでその感想を書こうとしている最中に、期間限定で無料の戯曲が読めることをフェイスブックのシェアで知った。二足の靴を穿くにしては連休も後半になってしまい、終息に合わせて戯曲の公開も続いていくようだから、下手に始めればそもそもの活動時間が失われかねない。となると1つを選ぶべきと考え、無料、古い、今、と考えながら、期間限定という言葉を決め手に読むことにした。


自分は古典を偏重する傾向があるものの、細川さんの曲を楽しめるので、まったく今を受けつけないわけではないが、小説に関しては村上春樹さんと村上龍さん、宮部みゆきさんを読んだことがあるくらいで、ほとんど無視に近い姿勢にある。演劇はそうではなく、舞台として広島市内で観るのを楽しんでいたが、戯曲に関しては劇団青年座の「横濱短篇ホテル」と、ちょっとした縁で読ませてもらった北村想さんの断片くらいで、個人的にはギリシャ悲劇や、シェイクスピア、モリエール、チェーホフなどの有名な作家や、ストリンドベリやブレヒトを読んだくらいで、多くは知らず、また古い作品ばかりだ。新しい映画よりも、古い映画作品に重きを置くのも同様の傾向だろう。それでも新しいものに触れる必要性は常々感じてはいるにしても、やはり時間がそうはさせない。


とにかく、今の作品に触れる良い機会なので、広島の若い演劇人には馴染み深いだろうが、数年前に演劇に興味を持った自分には、広島で演劇を観た2番目の作品である『昼下がりの思春期たちは漂う狼のようだ』の作・演出という蓬莱竜太さんは新鮮に記憶に残った人だ。キャストの多さを巧みに組み合わせつつ、ダンスも交え、若い人間のそれぞれの今抱える心が青い感動を持って描かれていた。素直に“演劇は面白い”と思える作品で、その前に観た第七劇場の「人形の家」と異なった色合いに、もっともっと演劇を知りたいと思わされた。


そんな蓬莱さんの肉厚の動きではなく、図面としての戯曲を読み始めてすぐに思ったのは、三点リーダーが多い。間やト書きは気にならなかったが、クエスチョンマークやビックリマークも多く、ふと「賭博黙示録カイジ」を思い出した。古い戯曲しか知らない自分にとってはこれがスタンダードなのかわからないが、これらの文字といえないような記号が物語進行に抑揚とテンポを正確に与えているのがわかり、作と演出を上質に手掛けるだけあって、物語世界の空気感が濁ることなく想像されているのだろう。7人の登場人物の造形力もシャープになされていて、一面的などと批判はできようが、その一面をまるまる描くことがそもそも難しく、粗のなさがそのまま物語構成にも発揮されていた。


やってきた二人の剛と柔、姉弟の中の陽と陰、父子の同一性に母の異端性が盛り込まれて、物語は複雑に錯綜することなく、字面においては非常に明確に進行していく。観客を引き込む要素はやってきた二人によって早々と釘を刺されて、なにかあることはギクシャクとした関係で明瞭に見せながら、その見えないものは自然と引きのばされていき、ある地点で明かされると、隠していたそれぞれが待っていたようにじりじりと歩み寄るようだ。決して緊張を解かず、攻撃する気はないがやはり何かしらの武器を持つ心構えで。


闘争、有機農業、ネットゲーム、派遣切りにリストラ選び、世界が一転した今となっては古いと思えるほどの要素ではあるが、動こうが動かまいが存在する物そのものが自然と寓意を備えるように、各要素は別のことを代弁しているように配置されている。旅行雑誌やシフトファイル、ドレス選びの右と左、虫を殺そうと争う二人の闘いなどに、1つでは関係性が乏しく、2つあってはじめて物と物との物語が生まれることを知らされる。広島で観た作品と異なり、因果や不条理、生きる為の力の本物と偽物など、生存と闘争という物質の時間経過における必然的衝突において起こらずにはいられない各現象が描き出されていて、エンターテイメント性を持ちながら、人生と社会そのものに問いかける人間本来の疑念が、希望を持ちながら各人物に仮託されているようだった。仕事、結婚、老後、フラメンコと衣装など、先々の悩みはつきないが、今はそれほど悪くないし、何もしていないわけではない、悪いことをしてきたわけでもないし、悪くなりもしないだろうという、ありのままが存在している。何の為の闘いで、誰の為の闘いで、逃げているわけでもなく、進んで戦っているように見えないが、程度の差が歪みを生んでいて、互いの理解を妨げていた。


三点リーダーによる無言が多く、戸惑いにも届かない反応としてのセリフなど、あれらを削除して演出家に任せればいいと思ってしまうが、作曲家でも指示の記載が多い人もいるので、それぞれの性格なのだろう。会話のなかで間や感情を探り出し、どのような解釈をあてはめるのが演出家の力量などと思ってしまうが、とても読みやすい臨場感をもたらす三点リーダーと記号は、個人の好みによる良し悪しになるのだろう。ルビのようで、あれを頼りの動作とリズムにしてしまう。それだけ世界が描かれているという裏返しではあるだろうが。


とはいえ、一読の自分には伺い知れない展開のバランスと切り替えがあることは間違いないだろう。実際後半部分を読んでいてそのまま劇の迫真を観るようで、有名な人だけあって無駄のない造形力は違う。人物に魂を注ぐ才能が異なるのだろう。


扱う主題は哲学的で、物と物の関係性は無駄なく好感が持てる。おっと思わせる場面の切り返しと広がりに機知があり、なにより読んでいて飽きないのだから、さすがだなぁ、と納得させられる。

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