4月25日(土)広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「永井荷風の『ADIEU(わかれ)』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「永井荷風の『ADIEU(わかれ)』」を読む。


顔写真を見て、フリーキックの名手か、東海生まれの日本語ラッパーを思い出す。どちらの人もその世界に名を残す独特な才能を持った人物で、この永井荷風もそのような特別な印象があるかと思い出せば、日記の有名な人だった。「濹東綺譚」は読んだがあまり覚えておらず、「断腸亭日乗」は少し読んだ気もするが、分量が分量なだけに少しだけだろうか、どっちにしろ、あまり覚えていない作家だ。


記憶力の優劣もあるが、小説を読みながら読んでいない姿勢こそ記憶の喪失に繋がっているのだろう。それでも夏目漱石などははっきりではないが各作品の印象を持っていて、安部公房や三島由紀夫も同様だから、名を残す文豪はそれだけ強いイメージを残す力を持っているのだろう。


約八ページのこの一人称の小説は、パリへの偏愛が風景描写を主に描かれている。偏重とまではいかないが、自分はマルセル・プルーストに重きを置いているので、同時代の作家であるこの日本のフランスかぶれの作家の文章を読んでいると、恐ろしく古臭いというよりも、フランス好きの象徴として完全な形式を持った平凡な視点と描写があることに驚くほどだ。書き出しの“絶望──Désespoir(デゼスポワール)──”からして胡乱な気はするが、その直感は破線をなぞるように示されていく。なんら面白みや新しい視点など一切ないと断言してもかまわないほどにパリの地名が使われ、カツフヱーやシヤンパンが登場して、フランス文学の借り物らしい嘆きに、フランス絵画らしい色彩を交えた街角の描写が重ねられる。そこには同時代のマルセル・プルーストが持つ透過した人間心理の視点などは微塵もなく、あるのは前時代のフランスらしい固定観念でしかなく、過誤でしかないと思わせるほど典型的なパリの礼賛が描かれている。これがフランス人による描写ならば、あまりの単調さと一面さにむしろ疑ってしまうが、これが日本人となると、あくまで異邦人らしい呑気さと独自の視点を持たない完全なる迎合精神だとして、とことん笑われるべきほどだ。自分の持つマルセル・プルーストへの好みと永井荷風のパリへの固執を、仮にマルセル・プルーストが知ることになったら、おそらく目に入らないほどつまらないものだろう。あまりにありがちな大衆性と追従をそこに見て、分析する対象にもならないほど、流行をむやみに追いかけるジレッタント気取りに顔を顰めて、手で追い払うことだろう。


それほどにこの小説の一人称の登場人物は、迫真に欠けている。本当だからこそかなり嘘らしく思われるという反作用の効果さえ生まれている。“プールヴアール”、“イスパニヤ”、“テラース”などのフランス語の読み方の差異は時代の違いの必然としても、“リユキザンブルグ公園”というドイツ語らしき読み方には異常を感じてしまい、“ルユキザンブウルの建物”となると統一性を疑ってしまい、何を指しているのかわからなくなるほどで、カリカチュアらしい人物を描き、卑俗なほど小さい頃の幻想を変わらずに抱き続ける人間の錯誤を表現していると勘違いするほどだ。


風景描写はこなれていて流れるように読める文章が多く、息の長いところはつっかえる箇所はあるものの描写力はたしかに喚起させる力を持っているが、それほど奇を持った生命力は存在しておらず、あくまで説明らしい印象となっている。離れるパリへの愛情と嘆きに関しては、仮衣装らしく、脱がしたら本人がいないと思われるほどで、絞り出すよりも、リースとレンタルで業務が成り立っている自前の備品のない会社のようだ。


とはいえ、恋は盲目という他ないから、誰よりもパリとフランスへの愛情を真っ直ぐに描いた作品となっており、そんな人物を他人は面白おかしく見て、常軌を逸した状態を、熱に浮かされていると揶揄してしまうのだ。まともな神経をしているなら、こんな長々とした冗句を綿々と描きはしないだろう。


要するに、パリというオシャンティーな街への溺愛を自慢する、余裕を持った独りよがりのナルシストの叫びとなっていて、当の本人はパリを離れるのが辛くてしかたないのだろうが、読み手側からすれば何も辛さを感じず、“誰であつたか、若し巴里でいよいよ食へなくなれば料理屋かカツフヱーの給仕人になるがよいと云つて居たのを聞いた事がある。自分は忽ち寝床から飛起きて、一度び脱ぎ捨てた衣服に手をかけたが、連夜の放蕩と、殊には昨夜の今朝方まで飲み続けたシヤンパンの為に、頭がふらふらするばかりか、身体は疲れ切つて、節々が馬鹿に痛い。ああ、こんな身体ではガルソンは愚か、何にも出来たものぢや無い、娼婦で生活する情夫にさへもなれはしまい。”という前半の文章にあるように、意気地がなく、気概もなく、とっとと日本に帰ってしまえばいいと思われる坊っちゃんの放蕩気取りの愚痴としか思えないのだ。


これが自身で体験した小説であり、一人称という直接の告白のような形であるからこそ、呆れるほどくだらないと思えるのであって、これが三人称ならば、登場人物の個性はぼやかされて、特定の人物と結びつけずに小説らしい人間を傍観できるのだろう。


しかし、本当のことを言えば、自分自身を見るようだからこそ徹底して批判したくなるのだ。疑うことなくナルシストであると自分自身を知っていて、他人を材料に創作するよりも体験を元に文章を起こすことがほとんどで、また厚顔無恥に内面を吐露することも多い。フランスが好きで、フランス絵画や音楽、文学を好ましく思っており、その影響が全面に出てしまっている。そして、時折パリにいた時のことを書いたりしてしまう。これはフランスに限らないが、思い出を材料にすることばかりで、他人に話せない分だけ作品で自己紹介するという、ひどく薄気味悪い性質を抑えることなく、恥知らずにさらけ出している。そして、創作が苦手だから、日記や批評にならない感想文で、自身の能力足らずを誤魔化して逃げている。


それをこの小説から感じてしまう。だから、人のふり見て我がふり直せをできずに、文句を言って小説を悪く分析するのだろう。それでも、自分ならどうするかと考えるなら、イギリスに渡った時の印象は同意するにしても、パリの印象はまるで違う。どこも小便臭く、足元に気をつけて歩かないと、田舎道で馬糞を踏んづけるように、犬の糞どころか、人糞まで踏みかねない汚い街だ。


良い街だけれど、長く住みたいなどとは思わない。パリに住むならば、どれだけウィーンのほうが良いだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る