2月22日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで山中瑶子監督の「子どものおもちゃ」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで山中瑶子監督の「子どものおもちゃ」を観る。


2017年観客賞(東京) ひかりTV賞 66分 カラー


監督・脚本・編集:山中瑶子

撮影:加藤明日花、山中瑶子

音楽:大堀翔太郎

出演:春原愛良、大下ヒロト、峯尾麻衣子、長谷川愛悠、廣渡美鮎、高橋寿男、阿部悠季乃、金子銀二


ジャン=ピエール・ジュネ監督の「アメリ」の女性主人公を“身近にいたら鬱陶しいイタイ女”、そんな評価に自分は同調することはなかったが、この映画に対して自分こそがそんな意味の感想を浮かべるようだった。日本語とフランス語の違い、そこに大きな文化の差も加わり肯定して受け入れることはできたが、この作品では少し知っている若い文化にとても理解したくない日本語の乱れが加わり、オドレイ・トトゥさんのように大理石に耐えられる姿態ではなく、目は綺麗だが目立って美しいというよりも、可愛いという平凡な女子高生という存在に、新奇な目新しさは感じられなかった。


劇中に何度も拒絶感が自分に生まれて、漫画か雑誌か、それとも学校生活から流行したかわからないマフラーの巻き方や、学ランの下にパーカーを重ねるファッション、それに女性のボブカットや男性らしさを感じられない前髪のゆったりした髪型など、大人らしく成熟した美は感じられなかった。そのせいかセリフにしても、すべてが軽々しく、魂の会話や、大衆、トム・ヨークなどの単語の含まれるセリフは浅薄に感じられてしまい、海面の水を汲んでその深さをわかったように語るようで、深層など感知もせずに便利な言葉だけが使われているようだった。


これが良いのだろう。自分の過ごした高校時代とは異なるも、基本とするむやみな若さは理解できる。もう自分は忘れているだけで、日々の会話の、うぜぇ、だりぃ、くそ、などの言葉は唾のように頻出していただろうし、それらに対する潔癖症は成人式を迎えた数年後くらいから発症したのだろう。そうなる前に自分も存在していたであろう時代の、今の高校生の興味深い生活感を映像から知ることができた。


本屋で働いていた時に、棚から出し入れしては積み重ねた多くの漫画の表紙が張り付いてくる。内容は読まなかったが、それらもこの映画を生み出すのに大きな影響を与えたのだろうと根拠なく思わせる。


自由なカメラはズームやアップなど、計算よりも感性で自在に駆使されていて、編集にも個性が顔を出した才能を感じさせる。セリフへの感覚は恐るべき鋭さがあり、ダンスシーン後の日本人の踊りに対する感覚への吐き捨ては、若いのによく知っていると上から目線で拍手したくなるほどだった。劇中に登場する高校生はきゃぴきゃぴと流行に揺れて生活する羊のようだが、一部は自立した感覚と頭を働かせて生きていることが描かれていて、おしゃれな音楽やブランドを着こなすセンスのよい同級生が思い出された。


頭よりも、頭脳と感性が溌剌としたこの作品は、劇中は拒否感を抱くも、後々振り返ると優れて鋭敏な感覚で構成されていて、凡庸ではないとはっきり断言できるショットも多くあった。後半はやや長ったらしく思える点もあったが、侵入後の部屋でのカットや、セリフのやりとりは、これこそエスプリだ、と軽々しく感想を言わせるほどの機知があった。


若さとは鈍さもあり、その中であまりに鋭い思春期が存在することを思い出された。生きるのに難しい十代後半の、素直で愚直なアイデアの散乱は、身近にないからこそ珍しく見えたのだろうか。今さらにこの感性に憧れるのは、遅く、昔と変わっていないようだが、当時の自分はこれに気づいていなかったことを気づかされる。時間差によって、感想と思い出、それに感覚も思い出された作品だった。

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