11月25日(月) 広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ・大ホールで「広島市民劇場11月例会 無名塾公演『ぺてん師 タルチュフ』」を観る。

広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ・大ホールで「広島市民劇場11月例会 無名塾公演『ぺてん師 タルチュフ』」を観る。


作:モリエール

翻訳:鈴木力衛

演出:高橋和男

音楽:池辺晋一郎

美術:片平圭衣子

照明:遠藤正義

衣装:石川君子

出演:仲代達矢、小宮久美子、菅原あき、長森雅人、松崎謙二、平井真軌、進藤健太郎、川村進、江間直子、吉田道広、高橋真悠、上水流大陸、島田仁、中山正太郎、朝日望


初めて仲代さんを観たのが小林正樹監督の「上意討ち 拝領妻始末」で、異様な目の輝きと三船さんに劣らぬ落ち着いた凄みで一度に覚えてしまい、黒澤明監督の「用心棒」で洒落ていながらも目を離せない実力のある姿が残り、好きな俳優になった。そんな神話のようなスクリーンだけの存在にいる仲代さんが広島に来るというので、信じられずにいながらも、栗原小巻さんを観たときの経験が、本物は必ず来ることを納得させていた。


自分にとってはホセ・カレーラスが広島に来るのと同列の出来事だが、あちらはチケット代に手が届かず見送ってしまったものの、こちらはいつも通りの市民劇場なので、9列目という好位置で観劇する機会に恵まれた。


どうしても仲代さんがこの公演の目玉のような立場にあるので、つい注目してしまう。ショパンのピアノ協奏曲のように登場までに時間はかかるもやはり本物はやって来て、さすがに姿と動きだけで存在感はあるも、第一声に驚いた。声がよく聴こえる。芝居の発声はこれを目指していくような見本として、とにかく聴こえる。力を込めて張りあげたりする音量ではなく、無理のない自然な音の存在感があり、あらゆる表現の基本にある巨大な伝達力が備わっていた。


第1幕の冒頭で存在を見せる小宮さんのペルネル夫人はやや声量が小さいと思われたが、劇の進行につれてその音量がわかってきた。若い女性の役ではないから物語の立場からすればあたりまえであって、はきはきした声で快活に動き回っていた江間さんのドリーヌがはっきり聴こえていたのも、小間使いとしての働きだけではなく、時には主人よりも強くある性格が表れているのだろう。長森さんのオルゴンも恰幅の良さに似合わないうわずった調子があり、時には見苦しいほどの声の裏返りもあるが、貴族ではなく商人という人物としての役割でそうなっていたのだろう。そして仲代さんが歳を重ねているからといってタルチュフという人物も老人になるわけではないので、小さく弱々しい声など出てこない。そんな芝居の基本の部分が濁されず明確に声として表れていただけでなく、ミリ単位で制御されている体の動きにも感じられ、菅原さんのエルミールの首の角度や扇子の動きなどは、優れた画家の素描の線のように、この位置ならこの表現が生まれると繰り返された経験と感覚で知ったうえで無理なく選出されているのだろう。若い二人の仲を取り持つ江間さんの走り方と人物を押しやる動きも同様で、雑な部分など一切なく、素早い動作の仲での各部位の調和はとても綺麗に流れていた。


これらが普通なのだろう。登場時間は短くとも川村さんのロワイヤルや松崎さんの警吏は、衣装とメイクからしてそれらしい人物となり、偉そうに話して指図する動きや、物語をひっくり返す一連の動きなど、端役は場面場面の鮮明な情景を表す重要な役目を担っているのだと効果の大きさを感じた。


この舞台の細部をいちいち取りあげればきりがなくなるほど、目を見張る磨き上げられた多くの要素で組み立てられていた。個人的には菅原さんと江間さん、長森さんの芝居に目を注ぐ時間が長く、舞台上で一緒に立つ仲代さんを長々と見たかったが、各人物にもやはり目は持っていかれた。


とはいえ、自分の持った先入観通り大物らしい演技だった仲代さんこそ最も意識を引き込まれた。椅子に座って舞台上で動いているようには見えなくても、呼吸はしており、様々な考えが行き過ぎている人間らしく常に磁場に訴えるある種の雰囲気が発せられていた。まるでガチャピンのような能面でオルゴン家の話を聞き過ごしていて、惚けた老人の理解しているのかしていないかわからない澄ました顔が張り付いているが、その裏側ではどんな思案がなされているのか、休止も音の一つということと同じく、静止による間と雰囲気という要素で舞台から威光を放っていた。演技の本質がどこで、何にあるのかわからないが、そこにある存在を嘘や偽りなくそのまま観ることができる芝居は、一つの到達点にあるのだろう。90歳に近い年齢の人間らしからぬ生命力にも驚嘆するが、演技になれば曲がった背骨も直ると思わせるほどしっかりした立ち姿でいて、表情の動き、女性に言い寄る際の左手の動き、開き直った時の言いっぷりなど、およそすべての演技が教科書となっているのだろう。


無名塾の舞台は初めてで、古典劇にどのような演出の工夫がなされているかはわからない。若い登場人物の動きに現代の世相に宿る軽さがあるように思えるのも、ただの気のせいのような気がしてしまう。また、少ない音色の小気味よい池辺さんの音楽も、N響アワーで冗談を口にしていた姿が見えるようだった。


戯曲では知っているも観たことのなかったモリエール劇を、それも仲代さんとその系統の無名塾で観ることができて、なんだかやけに感慨深く、深刻にならざろうえない影響を感じてしまう。良いものは、自照を促すのだろう。

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