10月24日(木) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで成瀬巳喜男監督の「驟雨」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで成瀬巳喜男監督の「驟雨」を観る。
1956年(昭和31年) 東宝 90分 白黒 35mm
監督:成瀬巳喜男
原作:岸田国士
脚本:水木洋子
音楽:斎藤一郎
撮影:玉井正夫
美術:中古智
出演:佐野周二、原節子、香川京子、小林桂樹、根岸明美、恩田清二郎、鈴木豊明、加東大介、伊豆肇、塩沢登代路、長岡輝子
題名からすればにわか雨のような一時のざわつきでもあるのかと思いきや、それほど目立った騒ぎは劇中に起きなかったように思える。鬱積した不満が夫婦間にあるのは新婚女性の愚痴を契機にありありと提示されるが、それがどのように通り雨と繋がるのか。新しく引っ越してきた隣人との関係に溝へ落ち込んでいくようなことになるかと思えば、ざわつきにもならない程度の軽い交際が少し呼吸するくらいだ。
題名が何を指し、どのような意味で宛がわれたのかわからなかったが、この作品では原節子さんの魅力に惹きつけられ続けた。今みたいに週に一度は映画を観るようになる前からその名前は知り、小津安二郎監督の「東京物語」でも観ていたが何かを包み隠したような笑い顔しか知らなかったので、今日の作品で憂いや戸惑い、妬ましさなどの様々な表情と演技を目にして、これほど存在感があるのかと驚愕した。映画が始まってすぐにぞくっとしたのが、ちょっとした目配せだけで強烈な印象と効果が光ったので、クレオパトラのような豊潤な顔のパーツと類まれな眼に吸い寄せられた。
輪郭がはっきりしているのでぼやけず、細かい表情の推移が明確な心の機微を伝えるようで、それは受け手が勝手に勘違いしているのかもしれないが、似たような笑い方をする一つ一つに細かい違いがあり、こんなに表情の読み取りやすい女優さんは珍しいと見当違いするほどだった。何より甘ったるさがなく、僧侶にしたほうが高尚な顔はより似合うと思われるほど男性よりな顔立ちだが、夫に遠回しにせがんだり、僻んだり、悄気げたりと、昔の女性らしい甘える声も似合っているので、捉えやすくも捉えがたい、わかりやすくわかりづらいという幅と深さが、多くの人間を惹きつけるのだと知った。演技が上手という才能も大切だが、顔立ちが立派というのも強力な天禀で、その圧倒的な威力を存分に味わされた。
そして90分という長くない上映時間で、最初は偉そうに見栄を張る男性の優位性が描かれるも、後々に色合いは変わって女性の立場の逆転が展開され、話があるという夫の言葉を一先ず置いて茶碗飯をかっ食らうという威勢の良さに、これほどの痛快な清涼感はそうそうないと唾を飲んだ。ここまでの運びの無駄のなさと緊密さ、そしてあの長ったらしい成瀬巳喜男監督の劇的な会話のやり取りが丁度よい尺とリズムにはまっていて、今回の特集で最も好ましい、むしろ疲れない作品として完成されていた。
音楽は今回も斎藤一郎さんで、「浮雲」のような扇情的なオーケストラではなく主にピアノが断続的に流れていて、他の作品同様に少し頼り過ぎな気もしないでもないが、これも特色の一つだろう。
やはり今回も女性の立場を重点に置いて、男性はあくまで引き立て役から逃れられないが、描き方は一面的にならず、本当に女性の心と立場に関心を持ち続けた人なのだと重ねて知ることになった。
淡島千景さんや倍賞千恵子さんなど好意的に思える女優さんは他にもいるが、あの裏に多くを秘めていることをまざまざと感じさせる作り笑いは、原節子さん独特の味わいだろう。他の人ならば薄気味悪くなってしまうだろうが、この人が表情を作ると気品があるからとても似合って見えるのだ。
一体何が驟雨だったのだろうか。映画の外は朝から晩まで雨が降り、本川も満々と水に溜まって流れている。素敵な人は、何をしても素敵だ。夢と笑いが古い世田谷の町に映り、面影などない梅ヶ丘駅と共に、良き時代はもはや存在しないと、昔の大女優の様々な顔を川面の陰影から掬って、繰り返し感銘を受けた。
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