9月1日(日) 広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ多目的スタジオで「アステールプラザ芸術劇場シリーズ[レジデンスコレクション]グンジョーブタイ第5回本公演『ロクな死にかた』」を観る。

広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ多目的スタジオで「アステールプラザ芸術劇場シリーズ[レジデンスコレクション]グンジョーブタイ第5回本公演『ロクな死にかた』」を観る。


作・広田淳一(アマヤドリ)

演出:深海哲哉

演出助手:竹野弘識、梅田麻衣、尾山咲乃

照明:木谷幸江

舞台美術:新田泰士

音響:前田歩

振付:玖島雅子

出演:川原翔太、内田有咲、梅田麻衣、新宅由三枝、吉原史麗、吉田一貴、長澤拓真、後白早智子、高石悠花、竹野弘識、尾村美瞳、深海哲哉


冒頭の踊りは若々しい活力があって、ポップなミュージックビデオを観るようだった。躍る揃った動きの中で一人、竹野さんが全身に神経と力を走らせて一段と躍動していた。


初めの川原さんの演じる鞠井君の死についての所感を聴いて、岩明均さんの「ヒストリエ」の1巻にある母親の殺害と、田島昭宇さんの「多重人格探偵サイコ」のトルソーが思い出された。健全な人間のモラルから反するような倒錯的な発言は、誰もが持ち、怖いもの見たさがより大きな実感となって肉を持った嗜好となるように、漫画やアニメに蔓延する要素が自分自身の過去へと打ち出される。とある人から聞いたのは、アニメ好きの娘が人の殺されるシーンについて、これは甘い、もっと違った風が良い、そのような説明をしていたと。これは時代劇の人の切られかたと同じだろうか。似ているが、聞いた実感はひどく異なる。


この独白シーンで、この人物に対しての第一印象が定まり、その後も思い入れのない距離感ではなく、いくらか嫌悪感を抱いていた。若い登場人物だからか、台詞には無駄に重ねられた言葉や、不自然に感じる語法に、苦手とする軽々しい最近の単語が頻発して、自身の年寄り臭さを実感する。もはや柔軟に新しい言葉に反応できず、固陋として反目を覚える。それは言葉だけでなく、ヒステリックな仕草のやりとりでも、心の奥から突いてくるのではなく、話し方、反応に馴染みがないというより、馴染みたくないからこその垣ができてしまい、奥が見えず、表面的にしか見えてこない。


それはチュニジア南部を旅行している時に、たまたまツアーで一緒だった若い学生を思い出させた。ここまで来るのだから意志と行動力はあるのだろうが、この場所で観たい物がはっきりせず、意志薄弱のようにぼんやりとしていた。5人乗りの車内で自発的に話すのでもなく、席を移動する場面でも気が利かず、食事でも無反応に近い。まるでクラゲのように手応えがない。これはイランで会った大学生にも近い印象を覚え、帰国してから会った数人の若者からも似た印象を受けた。若い人全員がそうではないと知っているが、一定数いる画一的な若者像を、この舞台で感じていた。軽さ、弱さ、そして覇気のなさだ。ルールに縛られた性格のニュアンスが昔の人間よりも窮屈で、逸脱できない存在の弱さもあり、台詞、動作に魅力を感じにくく、コメディの要素も自然に笑えないのだ。これは自分の持っている若い人の負の印象が、芝居によって喚起されて、舞台上に張り付いていたのだろう。そのせいで語られる死についての内容は、生きていない人間が語る、まるで漫画やアニメのような実感を持たない死のようで、アルジャジーラの映す衝撃的な死の映像ではなく、実体を持たず、次々と生まれては死んで復活する異なった形式の死を語っているようだった。それでも、死は死でしかないが。


先週の日曜日だったか、NHKの番組で狂言の舞台があり野村万作さんが「靭猿」の大名の態度の変化について語っていた。猿を殺せと命じていた大名が、経緯を知って不憫だと泣く、この振り幅と、態度が変わったあとにも潜む威厳だったか、質問に対してとにかくそのような事を話されていた。それは新藤兼人監督の「さくら隊散る」で昔の役者さんが丸山定夫さんについて語っていた時の、“屈折”という言葉を思い出させた。人間は一面的ではない、様々な性格と性質が混在して、状況によって変化するも、根の性質も時折顔を出す、そんな深みがあり、幅のある人間こそ、味わいがある、自分はそんな解釈をしてしまう。昔のような言い方をすれば、近頃の若い人間はぼんやりとして、気力がなく、野心もなく、つまらなく思えてしまう。それは振れ幅と奥行きがなく、常に一面的で、ルールに縛られ、形式に収まり、線を踏む勇気が足りないようだ。化学調味料や、人工香料のように、まるで深みがなく思えてしまう。


ただ、この劇を観ていて、ひどく苛立ちを覚えた鞠井君の彼女に接する態度とは別に、死についての独白を聞くと、やはり人間らしい内面を持っているのだと知る。ただその声は、腹から胆力を持って叫ばれるのではなく、やや喉のつらさを感じる無理に振り絞った悲痛なもので、やはり軽く感じる。これが今のニュアンスなのだろう、他の登場人物もそう、線が限りなく細く、細微で、あまりに可愛らしい人工的な絵のライトノベルや、電撃コミック、ジャンプスクエア、「BUMP OF CHICKEN」を感じる。自分の好む「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」はどこにもいない。


スマホを持たず、LINEを使ったことのないことも合わせて、おそらく自分は時代に取り残されていて、少し昔から続く今のニュアンスを知らず、味わいをわかっていないのだろう。それでも、見応えのあったシーンが二つあり、竹野さんが踊ったあとに死を問答されるくだりだ。朦朧としていた舞台が急に竹野さんの顔にエネルギーが集中して、表情から実感が伝わってきた。この人の演技は内から演じられているので、やや大袈裟で、古臭いのかもしれないが、自分にとって馴染みやすい表現だった。


もう一つが早口で恋人についてまくしたてる高石さんのシーンで、苦手とする単語や調子が矢継ぎ早に出てくるが、これはこの人の普段の生活で慣れている地なのだろうか、やけにしっくりしていて、引き込まれてしまい、緩急があまりなく、やや直線的で強い情動の少ない舞台のリズムのなかで、とても良い上向きのテンポに速度を上げて、すっと落ちをつけていた。


肌に合わない作品に出会った時は、必ず島崎藤村が自分の前に現れる。今回も同様に現れた。しかし、昔の自分には「夜明け前」は読めなかったが、今なら読める気がする。それと時代は異なるが、若い役者の、若い人間の心の機微を描いたこの芝居は、自分にこのような情感を思わせるのだから、うまく表現できているのだと思う。生きた屍のように思えた若い人達も、ただ自分が彼らを知らないだけで、人間の表し方の違いに触れることができていなかったのだろう。いつかわかるだろうか。


夢に現れた毬井君の態度は解せない。静かに去っていく優しさよりも、激しく抱きついて、思い切り泣き叫んで昇天するほうが自分の好みだ。チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」の第4楽章の激情を持って。おそらく、この考え方こそ古く、キャッチーにもならない場違いで、浅薄なのだろうが。それでも、階段を登る時の毬井君のセリフは好きだった。月に詩が歌い、ロマンがあるも、後半部で少し歪な単語が混じっていた。これはとても良かった。


青い照明に、窓に降り続く雨、音楽は静かなBGMで大きく顔を出さず、なんともナイーブな劇だった。ふと思い出したのは、ドイツの宿で会った人で、中学校の時にバスケ部だった自分は、一学年上で、割と強豪だった私立の中学校のキャプテンで坊主頭のその人を知っていた。顔見知りではなく、ドリブルが上手く、機敏だったプレイを覚えていた。驚いたことにその人で、イギリスに住んでいるらしく、その理由を訊いたら、どうも、イギリスが嫌いだから、あえてワーホリで選んだらしい。感心した。自分なら、嫌いではなく、好きな場所を選ぶ。なにせ人生は短いから、嫌いな方を選ぶ前に、好きな方を選んでしまう。早く死にそうになったら、後悔してしまう。


少し遠回りして、わざと嫌いな方へ近づくのは、余裕なのか、それとも風変わりだろうか。何にしても、ただ排斥するのではなく、苦手だからこそ関心を持つ、そんな心構えを考えさせられた舞台だった。

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