6月5日(水) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで豊田四郎監督の「恍惚の人」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで豊田四郎監督の「恍惚の人」を観る。


1973年(昭和48年) 芸苑社 100分 白黒 35mm


監督:森田四郎

音楽:佐藤優

出演:森繁久彌、高峰秀子、田村高廣、乙羽信子


モノクロの古い作品とはいえ、冷蔵庫はあり、冷凍食品もある時代の話だ。妻を亡くしたショックであろう、老人男性が突然呆けてしまい、その症状は次第に深刻になっていく。のべつ幕なしに息子の妻を頼りにして厄介をかける姿は、今の時代で、中年の男にとっては、まるで小さい頃にノストラダムスの大予言で恐怖したような思い込みと異なり、現実に待ち受けている解決のない業のような問題として真剣に考えさせられる。


この問題を実家で見てきて、母親から昔の話も聞かされ、今もちょっとした会合に出れば介護の話に花が咲くという場面を目にするとなると……、姥捨山というのはなんと冷酷で利害をふまえた陋習だったのだろう。


昨日、一昨日と芸術の世界に浸りきれる映画と舞台だったのに、今日はなんと先行きの暗い世界のなかにいるのだろう。森繁久彌さん演じる老人は、子供の名前と顔を忘れているのになぜか息子の妻だけを覚えている。呆ける前は優しい言葉などかけたことはなく、冷たくしていたらしいが、一体何の逆転現象だろうか。それは生前真面目だったらしい男の裏腹の態度によるもので、無垢に還ってしまえば純な感情だけが残っているのだろうか。


雨にぼやけるカメラが、老人の頭の中を映している。記憶はずぶ濡れになり、どこを彷徨っているかわからないのだが、求めているのはなんとなくわかっているようだ。息子の妻だけだ。息子も、娘も、立場がない。どのような家族関係があったのか、簡単な想像はこしらえることができる。


嫌々ながらも義父の世話をする高峰秀子さんと、しまいには「もしもし」ばかりつぶやく森繁久彌さんとの関係の推移がこの映画の見所だろう。老後問題は辛いから置いておいて、演技の妙は豊富にあるから、目の涼やかな高峰さんと、目は確かでないが見ているところはあるのだと感じさせる森重さんを観ることにした。


時代が変わっても老後は変わらないらしい。上映中に電話が鳴り、2桁に届くほど呼び出し音が鳴る。それから2回電話が鳴る。音に気づかないのだろうか、消音にする行為をしないのだろうか。劇場内は年齢層が高いから、反射的な反応を観衆に引き出すシーンでは、ついつい口に言葉が出る人が多い。これは年寄りに見られるもので、数人がこの反応を見せると、他の人はそれをしてもいいのかと気を許し、同様に言葉を述べるようになる。


まったく笑えない。だらしがない。今の自分が子供を理解できないように、子供の自分は大人が理解できず、老人が理解できない。それでも老人になれば理解できてしまうのだろう。歳をとったら、若い人に散々に馬鹿にされる老人になりたいと思う。おそらく、若い人を散々に馬鹿にしているだろうから。


機能が弱まったら、頭の働きがその分合理的になり、恐れもなくなるほどに機械化して、未練なく死んでしまえるようになれないものかと、ついつい思ってしまう映画だった。

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