6月1日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで岡本喜八監督の「肉弾」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで岡本喜八監督の「肉弾」を観る。


1968年(昭和43年) 肉弾をつくる会、ATG 116分 白黒 35mm


監督:岡本喜八

脚本:岡本喜八

撮影:村井博

音楽:佐藤優

出演:寺田農、大谷直子、笠智衆、北林谷栄


冒頭から、なんだか暑苦しく、気が滅入りそうな物語の始まる気がした。海に浮かぶ魚雷らしきものに、漬物でもありそうな桶が縄でくくりつけられていて、若い日本兵中にが座っている。狭苦しい空間を覗く、見上げるカメラに、神経がざらざらする。


ナレーションが入り、第一人称がわからなくなる。声の人物は誰だろう。帽子と眼鏡だけで、素っ裸で地面に張りついて尻を見せる。


なぜか安部公房がついてまわる。


しかし徐々に、一筋縄ではない、辛辣な諧謔性を含んだこの映画の世界にのめり込んでいく。偉そうに凄む兵隊だが、シリアスな戦争時代を描く映画と異なり、カリカチュアとなった登場人物は割と素直に部下の言葉に耳を傾けて、事実に即した意見を尊重しておかしな命令を下す。不真面目を真面目に描くのが、この時代のおかしさを表すのに適しているらしい。


人から豚、豚から神へと変わるくだりは軽妙で、ナレーションは少なくなり、雨が降り始める。このあたりから舞台と演出、構図は見ごたえがある。瓦礫の山に雨で泥だらけの道に、売春宿の生活感に、特攻が決まった兵隊達が蠢き、戦後20年を過ぎて撮られた映画ながら、この雰囲気は見事に当時を現出しているようだ。悲壮感はなくもないが、雨に濡れながらも湿っぽさはなく、道化師のような調子は因数分解の呪文と男女の関係に、爆弾を持って戦車の下に飛び込む裸の男と女の尻と尻まで、たゆたう叙情性を持ってカットは編集されていく。順々にシーンは運ばれて単純な結果をみるが、諸々の要素が関連しあっていて、ここまでの編集は一連の絵巻として完成された形を持っている。


それから遠州灘で道化はさらに演じられる。ここでさらに安部公房が主張をなす。雨と砂の対称的な舞台の変化の効果は大きく、モノクロで映す砂浜は色が剥ぎ取られていて、存在はくっきりと形が現れる。色は暑さを消し、どこか涼しげに太陽の光で白くぼやける。砂の丘陵に走り回り、人に出くわすこともなさそうだが、ここは舞台だから次々と人が登場して、映画を物語る寓意的な役割を前後に説明をつけるために継ぎ接ぎされていく。雨と異なるも、砂も同様に、映像の美しさは変わらない。


やや冗長に思う頃には、魚雷の中にいる冒頭のシーンへとつながる。これは、この映画のポスターが説明するようなコラージュされた歪な神話のようなものだ。どのシーンも語ることは真面目な不真面目で、不真面目は戦争の時代を語り、笑って当然のおかしさが蔓延して人々をおかしくしていたことを語っている。


狂うということはどういうことだろうか。常識から、大多数から外れることだろうか。白骨化した顎が笑っているようにみえた。立ち位置が変わることだろうか。ある時代から見れば、ある時代は狂っている。鯨を求めていた人種が、鯨を求めることを禁止して、肉食文化で育った人種が、肉食文化を放棄しようとする。狂うというのは、狂うということだろう。


一地点の大きな振れ幅を、平均寿命の低さを、この映画はすっきりした暑苦しさで描いている。ナレーションは仲代達矢さんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る