5月6日(月) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでマウゴジャタ・シュモフスカ監督の「顔」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでマウゴジャタ・シュモフスカ監督の「顔」を観る。
2017年 ポーランド 92分 カラー 日本語・英語字幕 デジタル
監督:マウゴシュカ・シュモフスカ
製作:ヤチェク・ドロシオ
脚本:マウゴシュカ・シュモフスカ、ミハウ・エングレルト
撮影:ミハウ・エングレルト
出演:マテウシュ・コシチュキェビチ、アグニェシュカ・ポトシャドリク
冒頭から気づくのはカメラの絞りだ。一点ではなく、数点以外はぼやけるという焦点が目につき、それがいつまでも続くが、途中の主人公の事故後の変化で、その理由をそこに置いてしまう。
ロックの種類を細かく判別できないが、先入観で判断すればヘヴィ・メタルのような音楽が数回流れる。主人公もノースリーブのデニムに、腕にタトゥーの目立つ、流れるような手入れではなく、ラフな長髪の男だ。これに太い鎖とラブラドールレトリバーのような犬がセットになった姿を、何度もヨーロッパ旅行で見かけたのを思い出される。
エフェクトで統制された薬物とリンクするダンスミュージックも流れ、その使い方と映像の組み合わせは、この監督はミュージックビデオから多く影響を受けているのかと思われる。映画全編を貫くのは、計算尽くされた遠望の構図のショットに、分析的なカットの編集に、巧みなカメラのパンとズームなど、カメラワークが多種多様に使われ、その技術の上手さとセンスの高さは必ず目につく。上手い、とにかく上手いのだが、それがときおりつまらなさを感じさせる。デザインが細部まで行き渡ったセンスのよいカフェやレストランで、あまりに上手すぎて味気なく、泥臭さや野暮ったさを欲するのは、自分の趣味の範囲での好みだが、汚れや粗に味わいを見つけようとする自然主義のような態度で接すると、この映画はあまりに完成されていて、鼻につくようだ。
例えば、ブラームスの交響曲第3番第3楽章の使われるシーンがあり、ここではテレビで映されている新体操選手の動きが、表象としての映像だろう、主人公と婚約した女性に移し替えられて、全裸の状態でバレエの回転、ピルエットというのだろうか、それにリボンを合わせた映像がズームとパンも合わせて移動して、女性は逆光状態に置かれ、真っ黒い形のシルエットへと移行するのだが、ここでのブラームスの曲の合わせ方はミュージックビデオのように過剰な上手さにあり、古い映画ばかり観ている自分にとっては、ある種の軽さと言うか、ポップと言うか、若者の文化になかなか理解を示せない固陋な性質が浮かび上がるようで、新しい表現に対しての直感的な拒絶反応のような反抗をたしかに覚える自分がいた。利口すぎて腹が立つような感じだ。
物語は、自分が小学生低学年で知ったような題材だ。顔面が代わり、その周囲の反応を描いている。これは手塚治虫の「火の鳥」で似たような物語を観ている。顔面が狼になった「太陽編」や、体に機械が混じって生かされた「復活編」なども、もともとあった自分の体の一部が代わり、アイデンティティを問われるというのは、似た題材となるだろう。
ただ、手塚治虫の漫画と比べると、やや短絡的と思われる出来事があり、曖昧なまま物語は運ばれていき、明確な解決などはなく、なんとなく過ぎていって締めたという印象がある。田舎を舞台にして、キリスト教、移民、家族、自由、保障制度、愛情による同情、陋習による無理解、などなどの問題を絡めているが、落ちるところは、あまりに自分は懐古的な趣味があるせいか、この作品の技巧的な軽さに、作られたような出来事の唐突さに、昨日訪れた正岡子規記念館で知らされた写生的文章を考えてしまった。
新しい表現の映画であるのだろう、ただ、作品の重みはクラシックと称される映画のような喉元に短刀を突きつけてくる苦みばしった真実は少ないように思える。先ほどヤフーの記事で読んだ、ガンダムの生みの親という富野由悠季監督のインタビューの「どんなかっこいい絵を描けても、物語を持った者には歯が立たない。」という言葉を思い出す。
手塚治虫には紛れもないちっぽけな人間の苦悩の物語がある。それがこの映画との違いを自分につけているのだろうか。
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