4月28日(日) 広島市中区八丁堀にあるサロンシネマでアルフォンソ・キュアロン監督の「ローマ」を観る。

広島市中区八丁堀にあるサロンシネマでアルフォンソ・キュアロン監督の「ローマ」を観る。


2018年 アメリカ・メキシコ 134分 モノクロ シネスコ


監督・脚本・製作・撮影・編集:アルフォンソ・キュアロン

出演:ヤリッツァ・アパリシオ、マリーナ・デ・ダビラ、マルコ・グラフ、ダニエラ・デメサ、カルロス・ペラルタ、ディエゴ・コルティナ・アウトレイ


広島市映像文化ライブラリーばかりに行き、最近の映画を観ていなかったので、どこか心の片隅に新作映画を軽んじていた。古典への偏重が自分にはあり、映画はまだよいとしても、小説に関しては完全に黙殺している。そんな凝り固まりを、この映画の基本構造となっている落ち着いた速度のパンショットが落としてくれた。


まるでドキュメンタリー映画かと根拠のない錯覚を覚えるほど、鮮明で透徹されたモノクロ映像は、軸に対して時計のように繰り返し水平移動の撮影で、コーカソイドの裕福な家族を雇い主とするモンゴロイドの召使いの生活を映していく。インディオという言葉で括ってしまえそうだが、中南米で何度も見てきたハット姿にスカートから足が覗ける女性達と同じ細かい違いのある人種と思われる。こういう時は、旅行の体験から親近感を持って対象に近づいてしまう。メキシコシティーで見た味気ない鉄格子の門や窓などに、その通りにフルーツの切り売り屋がいるのではないかと想起される。


映画の中で、その国の持つ問題を提起しない作品もあるだろうが、これはそうではない。召使いのモンゴロイドの女性同士はスペイン語ではない言葉で会話して、呼び名さえ異なっている。話される中に、土地が奪われたとニュースが出てくる。ヨーロピアンではない登場人物と会う場所が、まるでメキシコシティーでの高速バスで見た遠い山々にびっしりと埋まる家のどこかのようであり、広い空き地での大勢の男による武道のシーンなどは、チアパス州のどこかのインディオ達の村のようでもある。


息の長いショットに様々な動きがスムーズに絡み合い、信じがたい調和とリズムに収まっているカットが幾つもある。それがバラエティーに富み、家の中の出来事、デモに遭遇する家具店での出来事、死産の場面での出来事、どれも実寸の時間でそこに置かれるようなショットで、登場人物がもはや生の血肉と化し、演技として観ていられない。あまりにも密接な関係で登場人物がつながり、誇張された演出と演技には見えず、街から出る日常の音の輪郭が明確な画面の中で生活している。


そして物語が、とても良いのだ。良心的とか、良質ではなく、人の良い話で、雇用関係、人種の違いなどあるが、それを気にしない当然のつながりを、やや理想的かもしれないとしても、濁さずにみせてくれるのだ。


息を飲む瞬間は何度もあり、記憶に残るシーンも幾つもある。きっと誰もが、終盤の海岸のシーンで胸が静かにいられないだろう。逆光に、人物の奥の太陽に、激しい波の飛沫に、この映画は完成されていると震えてしまう。


おかげで、映画館を出てからも、やけに泣きたくなった。理由なんてない。感動に蝕まれて、発作のように起こるのだ。


冒頭に、カメラはチルトする。そして、最後に、カメラはチルトする。ふと考えた、水平移動に慣れたせいか、上下への移動が最初以来だったか。しかしその効果の蘊奥たるところは、簡単だからこそ心の奥底から計り知れないものがこみ上げてくる。タイルに浸った水が空を反射させて小さく飛行機が飛び、階段の先の空にも小さく飛びすぎる。見上げたカメラが、本当に晴れがましくて気分が良いのだ。


エンドロールでの、場内の帰りへ動く観衆の物音さえ、映画の余韻で幸せに聞こえる。平常の生活音が、やけに親密に聞こえて嬉しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る