4月13日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで野村芳太郎監督の「事件」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで野村芳太郎監督の「事件」を観る。
1978年(昭和53年) 松竹 138分 カラー 35mm
監督:野村芳太郎
出演:松坂慶子、大竹しのぶ、永島敏行、丹波哲郎
監督特有の編集のリズムは、前回観た「伊豆の踊子」で、「砂の器」の親子の回想シーンとの共通性を感じ、今日の映画でも、事件の背景に迫っていく地道で執拗な展開は、手がかりを探す方法が、捜査か、裁判所の証言台かの違いはあるも、やはり似たものを感じた。
詩的で華やかな装飾は少なく、美辞麗句や修辞技法の取り除かれたカットと編集は、自分の好みから外れる。ミステリー小説はほとんど読んだことはないが、赤川次郎の小説を読み、布石、伏線、その他の要素が技巧的に絡み合っているであろう簡明で味気ない文体は、話の筋と物語に旨味があるにしても、どうも趣味に合わない。それと似たような印象をこの映画に持ってしまう。「砂の器」でもそれはあったが、後半のあまりにも感傷的なコンサートの場面がそれを伏せてしまったようだ。
この映画は、厚木周辺を舞台にしており、自分にはわりと馴染みのある小田急江ノ島線の長後駅や、行ったことはないが知っている鶴巻温泉、何度も遊びに行った相模川の景色などが出てきて懐かしいが、カラーでそれが映し出されると、両親の写った古い写真を見るように、高度経済成長期の日本をひしひしと思い出される。それを知っているのではなく、あくまで写真だけでの印象の時代だ。
名前を知っているがよく知らない松坂慶子さんは、般若のようなメイクできつい顔に、ホステスという言葉で形容される場末のバーの女を演じていて、どうも安っぽく見えてしまう。
佐分利信さんは、どんな歳で登場しても、存在感ある佐分利信さんとなっている。先を見通しているかのような賢人のたたずまいとして、裁判官でも、誰もを納得させる不思議な力を有している。
大竹しのぶさんは今でも顔を知っている女優さんだが、若い時はこんなにうぶな顔つきで、可愛らしく、演技に迫力があるとは知らなかった。蓮葉な姉を反面教師にして育ったような純情な妹としてあるが、そこには余計なものを見ようとしない意固地なところがあり、それは余計なものを知っているからこそ臭いものに蓋をするように、頑なに自分の信じる世界を信じるので、狂気じみた拒絶が表情のこわばりと振動にあらわれて、過激な叫び声や、汚い言葉に、真面目であろうとするからこそ削った汚れが、そのままの純真さで吐き出されるようで、それらの表現が、本当に、心底から演じられているのだ。私生活でもすこし偏ったところがあるのではないかと心配になるほど、のめり込んだ演技なので、戻ってこれるのかと心配になるほどだ。
前半からあくびの出る展開なのだが、事件という一つの点を巧みな裁判所での証言を重ねてさかのぼり、ありふれた一般人の人間関係をたどっていくことで、事件を引き起こすまでの単純だが複雑に重なり、絡み合う人間模様に、やや単調で平坦な作り物らしい場面もあるが、ひと度、ひょんな事で殺人など起こってしまうと、平常の平凡のどれもが説得力のある伏線となって意味が過剰に膨れ上がってしまう。事件が、ただの人間たちを、特別な存在と変えてしまうのだ。
趣味が合わない、などと文句を言ってしまう映画なのだが、終わってしまい、少し時間が経ってしまうと、あの人間関係は別の意味も含まれているのではないだろうかなどと疑問が湧いてきて、まるで磁石のように他の要素と意味合いを呼び寄せて、思ったよりも良い映画だという感想を作り上げていく。
それは、劇中では三角関係の事件なんて台詞はあったが、エンディングでの、大竹しのぶさんの演技で、実は四角関係だったのではと思わされるふしがあり、隙間ができれば埋まるような、時には鏡のように関係が反射する男女関係が存在していたと思わせる台詞と、表情があった。
単純な味わいではなく、思ったよりも味わい深い映画らしいのだ。
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