4月5日(金) 広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ・オーケストラ等練習場でアンサンブル響第10回演奏会「春の響宴」を聴く。

広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ・オーケストラ等練習場でアンサンブル響第10回演奏会「春の響宴」を聴く。


広島交響楽団メンバー:Fl.森川公美、Ob.紫滋、Cl.品川秀世、Fg.小澤公裕、Hr.鈴木一裕、Vn.後藤絢子、Va.青野亜紀乃、Vc.遠藤和子、Cb.藤丸大輔、Kl.小林知世


ダンツィ:管楽五重奏曲 ト短調

モーツァルト:ピアノとオーボエ、クラリネット、ファゴットとホルンのための五重奏曲変 ホ長調

シュポア:九重奏曲 ヘ長調


映画のように毎週劇場で観るのと異なり、久しぶりに生で聴く音楽は強い印象を覚える。弦楽四重奏ではなく、これが管楽器による室内楽となるとより違った印象を受ける。金曜日の夜ということもあり、月曜日からの疲れがないわけではなく、日々の不摂生も重なり、なんだかぼやけたような意識で椅子に座って音楽に向かうと、すぐに管楽器の聴き分けやすい音色が重なって響きあい、「春の響宴」という名の演奏会のとおり、穏やかな気分に陥った。3列目の席だったので、学校の授業で目の前の教師を気にするような緊張にはないので、意識の開いている状態を無理に持続する必要はなく、なかばあきらめといったような心持でいられたせいか、目を瞑り、演奏者の運指などによる視覚から音色を探す状態ではなく、あまりにも強い存在感を持つ色や形に気をとられることなく、ぼんやりした宇宙のような暗い中で、あのあたりからこの楽器の音色が鳴り、継起して、重なりあっていると、空間よりも時間に重きを置いた感受体でいた。たいていこんな状態では眠気が勝り、目をつぶって見えないからこそ、音を媒介して生まれた勝手なイメージが跋扈して、それらがふと消える瞬間にそれらの存在を気づかせてくれるのだが、繁茂するのではなく、五本指で数えられる楽器となると、音色が明瞭に意識に響き、沈みかけた首が樋のようにことんと傾くことなく、夢と現の狭間で漂うような心地にあり、天気の良い日に、海水に浮かんでゆらゆらするように、水と空気の境で漂って、沈むも浮かぶもはっきりしない気持ちよさがあった。


前半はそのまま厳しさのない気の抜けた瞑想状態が一貫して続き、ダンツィは短調なのに暗さや物憂さがなく、モーツァルトも優れて無駄のない音の連続をただ感じるだけて、通常の演奏会では、意識のはっきりした状態なら、音楽の効果によりいくつにも輻輳する情感を言葉に置き換える作業が無駄に続き、意識が虚ろなら、感覚を少しでも働かせようと頭ばかりが切羽詰って無意味の極まった信用におけない感想を必死に作り出すのだが、この時は、雑念がほとんど生まれず、いつまでも尾を引く雇われ仕事に関する雑事のリフレインなどに音を聴きもらすことがなく、一つの理想的な状態にあることに驚いた。


後半になると、シュポアの曲は弦楽が入り、休憩を挟んだことで意識にも多少の変化があり、さざなみに浮かんでいられるような状態から、立ち、腿のあたりまで水に浸けて、砂浜から遠く海を遠望するようなぐあいになった。直立したことで頭の働きが第一となり、明瞭だと思っていた音楽はより幅広くも狭い視野の中におさまり、ヴィオラの音色を探したりするようになった。頭の働きが活発になったことで音を理性で聴き、姿を見せていなかった映像でない言語による想念も湧き出してくるが、管楽器だけのパートになると、前半のようについ目を瞑ってしまうか、斜め上方へと視線を向けてしまうような仕草になってしまうので、前半のあの今までにない観賞状態は、もしかしたら管楽器によるものなのだろう。


ちょうどその日の夜に読んだ小林秀雄の「骨董」のなかで、手で触り、味わい、所有する実生活に即した鑑賞としての陶器や絵画などの美術品が、いつからか美術館や博物館で飾られ、触ることのできない近代鑑賞になってしまったことについて述べられていて、そのなかで、美術館や音楽鑑賞会のあとの、不快な疲労感について言及されていた。たしかに自分もそれを感じたことは何度もあり、それが当然だと思っていたから疑問にもならなかったが、そのようにいわれると納得させられる。じっとして、美からの強大な影響を小さな頭の中で言葉に置き換えて疲弊する弊害は、たしかに思うことがある。ひどく神経が痛み、時間が15分、30分、1時間と経つごとに疲労は確実に迫ってくる。しかし、今日の前半のコンサートは、疲労などを感じるのではなく、むしろ安らぎと回復を与えられるものだった。


おそらく、今日の演奏者の親睦による演奏がそうさせたのかもしれない。演奏後の笑顔に、緊張ではなく親和と融和にあったとはっきり知れた。「春の響宴」のとおり緊張のとけたアンサンブルに、落ち着いた黒い服装の男性奏者と、桜から海の色まで、光沢のきらびやかなドレスの女性奏者が華やかで、冷たさはいっさい感じられなかった。


近代鑑賞というもので、ミュージアムやコンサートを批判的にくくることはしない。彼とは頭脳の働きがあまりにも違うし、人はそれぞれ雪の結晶のような細やかな感覚の差異がある。それに、春の晴天と、冬の曇天では、絵画も音楽も、作品はまるで異なったものになるだろう。最も大切なのは、どう味わえるかだけだ。疲れ切って倒れようが、意気揚々と足を鳴らそうが、後のことは二の次だ。

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