3月23日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでアルフォーズ・タンジュール監督の「カーキ色の記憶」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでアルフォーズ・タンジュール監督の「カーキ色の記憶」を観る。
2017山形市長賞
2016年 カタール 108分 カラー Blu-ray 日本語字幕・英語字幕
映像文化ライブラリーでは、今日から31日まで、「ヤマガタ in 広島~山形国際ドキュメンタリー映画祭優秀作品上映会~」が開催される。
初日の今日は、山形市長賞の作品上映後に、田浪亜央江さんによるシリアや中東についての講演もあった。
今月は鈴木清順監督の作品を観てばかりいたから、最近のデジタルカラー作品に面食らいそうになるも、冒頭からのカットへの集中に、映画を観る姿勢というのが近頃養われた気がして、二十代は地元から離れてたまに戻ると、帰郷の実感を強く得られていたが、三十代になると、実家に戻っても特になにも感じず、旅行しても新鮮な感じよりも、習慣が戻るような感覚となり、帰郷も旅行も同じ、ただその土地を変わらない自分の脳で受け取るように、映画との対峙も無神経になりはじめているような驕りを持った。
四人の人物からの視点と語りを借り、シリア兵の比喩などとしてカーキ色を付き添いに荒廃していく国の歴史を個人の、もしくは連帯する人々としての回想が、証言と映像によって技巧的に組み合わされており、厳密に選ばれたカットはどれも明確なメッセージ性と意気を持ち、多彩であるから、やけに上手な比喩と皮肉で、名言集に採集されそうな光沢を持った言葉が幾つも光るも、映像と音声からの情報量の多さに、英語と日本語の字幕のリズムと翻訳の範囲のずれも加わり、芸術作品にともなう重苦しく難解な底の深さが、冷たく瞑想的な雰囲気と共に表れていた。
ショットの幅も広い。緩やかに横へ動けば、ズームし、下がり、早く動けば、回想するようにムービングし、焦点は近くへ、遠くへ。
タルコフスキーの「ノスタルジア」がブラウン管テレビに映し出されるカットで、懐郷の想いが述べられたり、鮭が故郷の川に戻ることが述べられれば、歩く男は雨か何かによって増した水の流れ続ける階段が幾つものカーテンのような平面をみせるなかを、ゆっくりとのぼっていく、などのシンメトリーというか、意味を重ねたカットなどもある。
人物が語れば、映像は何を語るのか。個人か、人々か、回想か、連関か。久しぶりに観たこのドキュメンタリー映画に、ドキュメンタリーのスタイルを無駄に考え、ドキュメンタリーは情報量が多く、少しでも気を抜くと、あとあとに回収できなくなるなどと考えると、それはこの作品が、もしかしたら優れて巧みだからかもしれない、いや、普段観る映画も、同様だと思ったりしている。
上映後、田浪亜央江の講演でずいぶんと解決した。疑問も持たずにいたのに、答えを見せられて、疑問を持っていたと錯覚する点が多々あるほど、細やかで、映画好きらしい視点に、豊富なシリアの知識と、ノスタルジックな個人の思い出がつまり、本当に面白い内容だった。
理知的で、学者らしい分析な語り口でありながらも、女性らしい講演で、画面に地図が表れながら、語ることは別で、のちのちにその画面の地図が説明されたりなどのずれはあるも、語る内容の滋味が豊富で、かつ信頼におけるものだから、どうしたってそんな些末な論理性は無視して、話される内容だけに集中できた。
シリアの政治的な歴史、都市の特性、国民性、登場人物の背景、などの基礎知識が詳しく頭に入っており、それに合わせて約2年間のシリアへの留学体験が感情的に混ぜられて説明され、映画の各場面の解説などは、研ぎ澄まされた視点があり、たった1時間ではあまりに少ないと思わせるほどだった。
講演の締めくくりが、こういった人類史に残る複雑な構造の悲劇に対し、一個人はどのように反応すべきか、こみ上げる想いをコントロールしきれずも、なんとか抑えながら言葉を採択していた。シリアと一緒に生きる、そのような言葉で語られていたが、まず自分に思ったのは、広島に生活する人間の業ともいえる原爆への向き合い方だ。同じとは決して言えないが、過去の、現在の悲劇に対して、一個人にいったい何ができるのだ。こう考えると、次に浮かぶのが地震、そして豪雨災害だ。こうなると、自責の念がぽっと浮かび、偽善、無責任、無力、無反応、無行動、無視、反省、無関心、無関心、衰弱、摩耗、無関心、無関心、などの嘘くさい感情だけがめぐり、実際の行動は何一つ行われず、それでいて心では何か行動をしなければいけない、などと思いながら、個人的な生活、恐ろしく意味のない享楽的な生活に必死になる自分に、もはや考えるのも無駄と結論をつけて、平時の自分を厚顔で守っているような弱い性格を見出さないように水面下で励んでいる。
こうなるとミスターチルドレンのとある曲の歌詞が浮かび、難しく考え出すと結局すべてがいやになって、と言葉を借りたくなる。
しかし、以前難民映画祭の時も考えたような気がしたが、関心を持ち、考え続けることが大切だから、まずそれを守ろう、と立ち居を戻そうとする。藁をもつかむ思い、などとまったく信用できない言葉と、こんな言葉を使って擁護する卑劣な気持ちとの二重でだ。
とあるボランティア関係者に、種まきという言葉を教えてもらい、それが今日も救いとなっている。深い知識と経験がなくても、発信する姿勢が大切だから、そんな言葉を今回のシリア情勢の問題を知った今に当てはめて、何もできないし、何もしていないけれど、今はとにかくシリアについて考えて、関心を持っていよう。
これはとてもむずかしいことだけれど、今ならできる。それでいいと、今は納得するほかはない。
誰が言ったのか、愛情の反対は無関心と。無関心の反対は愛情だろうか。それだけではなく、恨み、憎しみなどもあるような。
とにかく、ドキュメンタリー作品による切実な影響、作品の質の高さ、分析的な構えによる確かに存在していた悲惨な現実への配慮と罪悪感、などなど、あまりにも考えることが多い映画と講演だった。
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