12月2日(日) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでパオロ・ソレンティーノ監督の「グランドフィナーレ」を観た。

広島市映像文化ライブラリーでパオロ・ソレンティーノ監督の「グランドフィナーレ」を観た。


2015年:イタリア、フランス、スイス、イギリス

監督:パオロ・ソレンティーノ

出演:マイケル・ケイン、ハーヴェイ・カイテル、レイチェル・ワイズ、ジェーン・フォンダ


引退した指揮者であった音楽家は、いまだ創作意欲の衰えない能力の衰えた映画監督を友として、夏のスイスの山のホテルで過ごしている。でっぷり太った有名なサッカー選手や、ハリウッドの俳優、無言で食事する老夫婦、登山家、チベット仏教徒、話すことがないと話す踊り好きのマッサージ師、強烈なボディのミス・ユニバースなどが、そのホテルで思い思いに過ごしている。究極ともいえる夏山の美しい風景に、高級ホテルでは優雅な雰囲気が漂い、何不自由なさそうに、急ぐことなく、焦ることなく各々がゆったり生活しながら、それぞれの抱える空虚が塞がらずにいるようだ。


文化人に山という舞台は、トーマス・マンの「魔の山」を思い出させる。若かった自分には、様々な登場人物による無駄話としか思えない衒学的な会話の続くこの小説がよくわからなかった。つまらないのではなく、わからなかったからいつか再読しようと思いつつ、そのままだ。


また、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の“花咲く乙女たちのかげに”で、主人公がブルターニュ地方の海岸のホテルで過ごす人間模様を想起させる。そこでは主人公の若さから発する幻想と現実が花開き、「魔の山」のような戦争の影と病気が姿を消した暗い土台となっているのではなく、世間体を気にする有閑階級の痴呆的なモラルの固執や頑迷などの、満たされているがゆえの過剰な気取りなどを書割として、移ろいゆく海の光と赤いサンザシなどと共に、若き乙女たちの溌剌としてはっきりしない集合体との関係が、みずみずしく過ごされていく。


それらと少し似た映画だと思った。静かに推移していくカメラに、断片的にカットされた登場人物の特徴など、慌ただしく動くことはない。口論でさえ、物腰が柔らかい気がする。それは吹き替えのせいもあるだろう。それでも、この映画は人生に対しての真摯な態度が示されている。


家族への愛情が主題となり、老年からみた過去への後悔が動きを停止させているが、まだ若さは残っているらしい。結局、考え方だろう。若いながら老年のようにいる人々も、結局似た物の考え方によって、歳は若くも、老年と似た情感でいるのだろう。


誰もが悩んでいる。そんなことを伝える映画だ。ユーモアもあり、機知に富んだ会話もある。家族、親友、仕事への情熱に、諧謔的な日常のやりとり、人生を豊かにする要素が、一貫としてわかりやすく並べられているのではなく、細切れに、たしかに語られている。


トーマス・マンはどうだったか覚えていないが、マルセル・プルーストはこんな誠実な物語にはならない。こんなに良い面だけを見せてはくれない。

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