10月7日(日) 広島市中区加古町にある広島文化学園HBGホールで「広島交響楽団第384回定期演奏会」を聴いた。
広島文化学園HBGホールで、広島交響楽団第384回定期演奏会を聴きに行った。
スメタナ:連作交響詩「わが祖国」より ブラニーク
ブルックナー(スクロヴァチェフスキ編曲、弦楽合奏版):弦楽五重奏曲ヘ長調より アダージョ
ドヴォルザーク(中原達彦編曲、管弦楽版):我が母の教え給いし歌
フサ:プラハ1968年のための音楽
この日はそれぞれの曲の各部分をとってきて、一つの連作のように配置されていた。演奏前の下野さんの話では、チェコの歴史をアーチ曲線のように起点と終点でつなぎ、曲が作られた背景から戦いと平和に思いを馳せて、国や身近な人への愛と感謝を感じてもらえたら、のようなことを言っていた。
起点の曲がスメタナで、ヤン・フスの教会改革支持者であったフス教徒の最後に追い込まれた土地であるブラニークの名を持つ曲によって、カトリック教会とドイツ系支配への反逆という立ち上がりを想起させ、曲中のとある動機によって勇壮に曲は閉じる。鎮圧されたフス教徒だが、戦士はいつか蘇り、最終的な国家の勝利が奏でられる。
終点の曲がフサで、プラハの春によって作られた怒りの曲は、無調で、爆発的な音で圧倒し、スメタナのブラニークに登場した動機がここでも登場する。民主化に立ち上がった国が、ソ連に息の根を止められる。しかし動機は気概を殺せないことを暗示している。
起こって、消される。悲劇的な歴史の繰り返しを端と端に置き、祖国愛を強く映し出す。その間にドヴォルザークの曲を置くことで、母への愛の歌から、身近な人への愛を示す。
ブルックナーは素晴らしい曲だから入れられたらしい。
選曲は別にして、この日の演奏はどれも素直に楽しめた。先日に公開リハーサルを観たから、いつもより思い入れがあり、体調も良かったからだろう。
普段はまったく聴かないスメタナの「わが祖国」の第6曲が壮大ながら、木管が小気味よく演奏される箇所も可愛らしく、良い曲だと思った。
ドヴォルザークも約3分の短い曲ながら、オーボエの優しいメロディーに体はついつい揺れてしまった。
ただ、ブルックナーとフサは残念だった。どちらも非常に素晴らしい演奏で、ブルックナーはマーラーとは違った少しかたさがあるも、優美に、また切なく、美しい弦の音色が様なざまな表情でゆったりと折り重ねられていき、静かに弦の音が沈んでいく最後に、誰かの携帯電話が4度鳴った。最悪だ。
フサもほぼ同様で、リハーサルですでにたまげていたこの曲は、大ホールの二階席では発狂しそうなほどの音圧は和らぎ、味わったことのない様々な音の効果を楽しみながら、さあ、怒りの大音量で曲が終わると思った瞬間、誰かが大声で「ブラボー」と叫ぶ。曲が終わり、音が切れる前から、下野さんの指揮が動きを止めたとほぼ同時に叫ばれた。一体何がブラボーなのだ。脳天気な。余韻など何もない。下野さんが珍しく演奏前にプログラムの解説をしているのに、なぜ、この曲の最後で余韻を味わえないのだろうか。チェコの歴史を、プラハの春の悲劇を、余韻がどれほどの意味を持ち得ているのか、そこからどんな音が、演奏し、聴いている人々に聴こえてくるだろうか。
これこそ悲劇だ。
普段ならこんなことに腹を立てるが、それほど怒ることはないものの、前日に公開リハーサルで、いかに繊細に、神経細やかに音を作っているかを知ったから、その努力を無神経な聴衆の不手際で壊されることは、なんて残念なことだろう。ブルックナーの曲で、自分にはまったくわからないほどの感覚で、弦の音の入るタイミングを話し合っていた。いかに良いものを作ろうとしているか、リハーサルでとても伝わってきた。それは何の為かといえば、演奏する人々以上に聴衆の為に違いないだろうか。
今までは良い曲を邪魔されただけの怒りだが、良い曲を作り上げた人々の努力を無駄にするような行為への怒りはより強いものがある。
しかし、どこに行っても、こういう人は必ず存在する。働き蟻の中で、働かない蟻が必ずいるように、自然の法則なのだろう。
玉に傷の演奏会だった。
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