9月8日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでレコードコンサートの「バロック音楽と密教」を聴く。

広島市映像文化ライブラリーで、レコードコンサートの、「バロック音楽と密教」を聴きに行った。


選曲&解説:中畝みのり


バロック音楽の知識を何かしら得られるだろうと期待して、この講義に参加した。前に、フランスの現代のシャンソンについてのレコードコンサートに参加して、とても得るものがあったからだ。


鑑賞した曲は、モンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」からヴェルシクルスとレスポンソリウムと、「ポッペアの戴冠」からプロローグ。


次にヨハン・セバスティアン・バッハの「フーガの技法」の第1番を、パイプオルガン、チェンバロ、弦楽四重奏、ピアノと聴き比べた。


モンテヴェルディでは、当時のイタリアの状況を踏まえ、反宗教改革のさなかにあったカトリック教会が求めていものと、時代の先端をゆく技法を使って腕前を示したいモンテヴェルディの思惑を示すものが対比され、前者は「イン・イルロ・テンポレ」と呼ばれるミサ曲で、後者は「夕べの祈り」と呼ばれる挽歌だ。今回聴いたのは「夕べの祈り」だけで、もらったテキストによると、どちらもグレゴリオ聖歌を基盤に派生したが、一方は純化された形で、自然、あるいは素顔となり、もう一方は、きらびやかに装われて、仮面を成しており、両方は鋭く対立していながら、どちらも同じ聖の世界を見つめて作られたとのことだ。


ならばミサ曲も聴きたかったが、片方だけで判断すると、華やかで、平板に感じ、自分の好みには合わないバロックのつまらなさを聴いてしまう。繰り返し聴けば、その良さがわかるだろうが、イコンなどの宗教画を観ても、どれも同じに見えて、退屈でしかたながない状況と同じ位置にある自分には仕方がない。グレゴリオ聖歌の荘厳な音律のほうが好みだ。


次に聴いた「ポッペアの戴冠」は映像付きだったので、音楽と同時に衣装と演技に眼が留まった。公演を撮影したオペラではなく、ドラマ仕立てのように撮影された映像なので、カメラワークは幅を持ち、オーケストラを映して指揮者にズームしたり、歌い手を映したまま転回する。このすこし古い映像に、昔に観たモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」のひどいあらすじと、とても許容できない映像仕立に、なんてつまらないDVD作品だと憤慨したのを思い出した。


バロック時代の音楽には三つの要素があり、オペラの全盛、新しい楽器の登場、それと通奏低音があるとのこと。オペラはあくまで音楽を楽しむもので、筋や物語はあくまで音楽を楽しむための付け合せのようなことを先生は述べていた。なるほどと思った。筋や物語を考えたら、とてもたまったものじゃない。


最近は歌曲も良く思えるようになったので、「ポッペアの戴冠」のプロローグも面白く聴けた。今なら、あのとても趣味に合わない「コジ・ファン・トゥッテ」も楽しめるのだろうか。


最後にバッハの「フーガの技法」を曼荼羅と重ねて聴いた。マンダラという言葉は、前半のマンダ、という語に、中心や、心髄といった意味を持ち、後半のラは、所有を意味する接尾辞とされ、両者を総合して、「心髄を円満するもの」というような意味を持つ合成語であると、テキストには説明されている。曼荼羅には、大日如来を中心に、如来や菩薩が等間隔に配置され、その外には明王などの神様が座している。曼荼羅の特徴を簡単に並べると、第1が「空間」、第2は「複数性」、第3は「中心を持つ」、第4は「調和性」、第5は「動的な流れ」とのこと。先生いわく、お互いの性質を認めたうえで、神様は近づきすぎず、離れすぎず、その空間の中で、たえず留まらず、調和しているとのこと。


マンダラをバッハの「フーガの技法」に照らすと、中心が最初の4小節に表れる12の音符で、この主題を中心に模倣反復や拡大、縮小、転回、逆光が行われ、常に五線譜の中で調和を崩さず、複雑でありながらも幾何学的かつ数学的性質を保持して、もとの場所に戻るとのことだ。この分子配列やとある定理のごとく確固たる構造は、曼荼羅そのものであると先生は言う。


たしかにその通りだ。この神の運行は、天体の動きのようなもので、一年365日という動きのなかで、その日その日の天候や自然は毎年違うも、早い遅い、長い短いはあるものの日本においては四季があり、大きくみれば常に同じ構造を繰り返して、この世界はまわっているのだ。


「フーガの技法」も曼荼羅も、神を基準に描かれているのだということになる。とてもわかりやすい講義だった。さらにイスラムの教義や文化に、同じものを求めたら、いったい何が見出されるだろう。コーランの詠唱にも、自分は「フーガの技法」を感じる。あーえらいっらっらー、むはんまどむすららと唱える文句にも、アッラーを中心とした運行があることだろう。


先生は、「フーガの技法」には楽器の指定がないと言っていた。聴き比べの結果、楽器に縛られることなく、どの楽器で演奏しても楽譜の定理は同じものを表現するので、バッハはわざわざ指定しなかったとのことだ。


自分は、グレン・グールドのピアノで聴いた「フーガの技法」には、バッハもこの人間の登場は予期できなかっただろうと思われた。どの楽器で弾いてもほぼ同じものだとしても、この晩年のピアニストが弾くこの曲は、まるで違って聴こえる。一音一音が痛ましく、やるせなく、聴いていていたたまれなくなる。このピアニストは何て閉鎖された世界で、自己を見つめ続けて、バッハの曲と一体になるよう考え、先生いわく修験者のように生き続けてきたのだろう。神に仕えるものの目指すところはどこだろうか。解脱だろうか。このピアニストは解脱どころか、まったく正反対の場所を目指してしまったように思える。その音には、あまりにも強烈な一個人が宿ってしまい、神の運行を破壊しているようだ。


良い悪いはなく、素晴らしい音楽は素晴らしいものだ。グレン・グールドのように逸脱した存在が「フーガの技法」を弾くのだから、本当に面白い世界だと思う。創造と破壊、定められるようで、定まらない世界、それこそが大きな視点で観た調和なのだと考えてしまう。

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