6月23日(土) 広島市中区基町にあるひろしま美術館で「ねこがいっぱい ねこアート展」を観る。


ひろしま美術館のねこ展へ行ってきた。


会期は今月の24日までで、ひろしま美術館の年間パスポートの会費の元をとるために行ってきた。


猫はそれほど好きな生き物ではない。持っている文庫本のブックカバー4冊は、どれも猫と五線譜と音符の絵柄で、これは広島の東急ハンズで探したブックカバーの中で分厚い本をカバーすることができて最も安いから買った。赤、白、黒、青の4色だ。まるで猫好きだ。


猫や犬よりも、魚や爬虫類の方が好きだ。色彩は鮮やかで、進化による美しさが備わっている。哺乳類はたいてい美しくない。醜い生き物も多い、それが可愛いのだとしても。下等生物のほうが美しい機能性を備えていることが多い。


猫の描かれていることを基本に絵は展示されていて、国や時代によって猫がどのように扱われているかが学べる。古代のエジプト、中世ヨーロッパ、江戸時代の日本など、暗闇で光る眼や、狩猟本能の残る仕草(例えば狩りの為に余計な体力を使わずに眠って力を残しておく)、発情しているときの不気味な鳴き声など、猫の特徴がどのように人々に受け取られるかによって、保護され、崇められ、魔女の手先となり、忌み嫌われ、貴族の愛玩となり、鼠駆除として用いられ、一緒に暮らし、人間と親しくなり、立場は変遷してきた。


小粒な作品ばかりで、寄せ集めた感じは否めないが、エジプト末期王朝の塑像バステト女神像の滑らかな立ち姿は見ごたえがある。ジャック・カロとゴヤの醜い絵図のエッチングも悪くない。キース・ファン・ドンゲンのシャムネコを抱く夫人は青カビの生えたような顔色だ。林竹治郎の朝の祈りには貧しさと寒々しさによって増幅された正教徒のような信仰心が感じられた。レオノール・フジタは好きになれない、島崎藤村の不倫小説を読むような気色の悪さだが、家並みの風景画だけは好感を持てた。熊谷守一と長谷川潾二郎の作品がこの展覧会の中心だろう。熊谷守一のシンプルな線と色の配置だけだが、それだけで愛らしい猫が伝わり、長谷川潾二郎の細密に描かれた中に、死んだ飼い猫への愛情が表情に表れていて、とても温かく、安らかな静謐に包まれている。エマニュエル・フレミエのねずみを食べる猫は上から覗くと、豹のような獣の筋骨が体躯に表れていて、猫はやはり獣だと納得させられる。木村直道のサカリのついた猫はまるで絵文字のようなポップな可愛らしさだ。


猫も色々だと、展覧会を観終わって、何の変哲もない感想が頭に浮かぶ。生活に刺激を与えるほどの何かがあったわけではなく、結局平凡な猫に落ち着く。丸まったり、飛び跳ねたり。犬のように群れたり吠えたりすることなく、人間の近くにいても一匹でその野生を保ち、のどかそうに見えるその姿の全てが、生きるために磨かれた狩猟本能の結晶だと誰が気づくだろう。


犬と猫、どっちが好きなんて質問があるが、鳥や魚が好きと答える。猫の絵を観ても、猫好きのように猫を好きになれない。観たかったのは素晴らしい絵だ。

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