第四話 魔女の約束

 あれから何年が経っただろう。

 森の中で偶然助けた、あの男の子――優しい心を持った、無鉄砲で泣き虫な十歳は、今頃どうしているだろうか。約束は守ってくれただろうか。

 ローエの服を掴んでぼろぼろと泣きながら、おばあちゃんの病気を治してほしいと訴える一生懸命な姿を思い出すたびに、ローエは微笑ましく、また懐かしい気持ちになる。


 森のすべては、今やローエの庭である。

 草花の採取からの帰りしな、ローエは久しぶりに男の子と出会った崖の縁を歩いていた。


(あの子と一緒にいた犬は、なんて名前だったか……二文字だった気がするけれど)


 しゃがんで足元に咲く花を手に取っていると、周囲に小鳥が次々と集まってきた。


「はいはい、なあに?」


 小鳥たちはいつも、森の外の様子をローエに教えてくれる。

 だが今は、それぞれが同時に何かを伝えようとしていて、聞き分けられない。


「あのね、順番にお願いさね。なあに、犬が……?」


 その時、小鳥たちが一斉に羽ばたいて逃げていった。

 直後、犬の鳴き声がだんだん近づいてくることに、ローエは気づいた。


「こっちか? よく覚えてるな、アマ」


(――アマ! そう、犬の名前……ん?)


 続いて聞こえてきた男の声に、ローエは一瞬混乱して動けなくなる。

 ワン! という鳴き声と共に、木の陰から老犬が飛び出てきた。


「待ってよアマ!」


 その後を追って、一人の青年が、ローエの前に現れた。

 ローエは立ち尽くし、言葉を失う。青年もローエに気づき、その場で固まる。

 老犬は青年の服を噛んで引っ張り、ローエの近くまで連れてこようとしている。


「ちょっと、アマ、やめろ!」

「――その犬、アマかい?」


 ローエがそう言うと、青年は犬を体から引き離して服を直し、正面からローエに向き直った。


「魔女、さん」

「なんとまあ」

「僕のこと、覚えてますか? 昔、怪我をしていたところを、助けてもらった――」

「ジュヌかい?」

「はい!」


 人懐っこく破顔した青年は、大股で近づいてくる。

 狼狽ろうばいしたローエは、思わず後退あとじさった。その瞬間、ガクッと崖に足が落ちる。


「危ないっ!」


 青年が長い腕を伸ばし、とっさにローエの手首を掴んで引き上げる。その勢いのまま、二人は折り重なって地面に転がった。

 心配したアマが、吠えながら二人の周囲をぐるぐると駆けた。


「だ、大丈夫ですか!?」

「ごめんなさいね、あんまりにも驚いて。あんた、本当に、あの時のジュヌなのかい?」


 ローエは、ずれた頭巾フードを脱いで立ち上がり、ジュヌから三歩離れて外套マントの土埃を払った。

 ジュヌも立ち上がり、大きくなった身長で再びローエに向き直った。彼は着の身着のままではなく、旅用の服と、足元は山歩きにも耐えうる頑丈な靴である。

 少し長い黒髪の間から、晴れた空と同じ青い色の瞳が覗く。当時の面影を残しつつも、すっと通った鼻筋と、切れ長の目で微笑むジュヌの大人びた表情は、ローエに年月の経過を実感させた。


「覚えてて、くれましたか」

「あのね、あんたのことがなんだか急に懐かしくなって、ちょうどここまで散歩に来たのさ。アマはすっかりおばあちゃんになって。仲間さね」


 ローエが身を屈めて目線を合わせると、ジュヌの脇でアマは尻尾をしきりに振った。


「あの時と逆さね。ありがとう、助けてくれて。あのねジュヌ、あんたはいくつになったのかい?」

「十九です」

「なんとまあ、人間の子は成長が早いねえ」

「魔女さんは、あの時と変わらないですね」

「もうこの歳になると、十年も二十年も同じさね」


 二人の間にある距離を測るように、さあっと風が通り抜けた。

 風に流された髪を手で整え、ジュヌは目を伏せて口を開く。


「魔女さんにはずっと、あの時のお礼が言いたくて」

「あんたのおばあちゃん、薬は飲めたかい?」

「はい。医者の先生には奇跡だと言われました。祖母も体が動くようになって、本当に喜んでました」

「約束は守ってくれた?」

「誰にも、言っていません」

「そうかい。役に立てて嬉しいさ。今、おばあちゃんは?」

「実は、その次の年に、亡くなりました。薬を飲んでからずっと元気だったんですが、ある日突然に」

「……そうかい」

「魔女さんは、僕の恩人です。僕の命も、祖母の命も救ってくださって、本当に、ありがとうございました」


 ジュヌは深く頭を下げ、ゆっくりと姿勢を戻した。

 その瞳の奥にある、もっと重大な何かを秘めたような物憂さを察し、ローエはふっと視線を逸らした。


「あのねジュヌ、わたしは自分がやりたいことをやっているだけさね。あの後、イムには随分と怒られたけれど」

「イム?」

「わたしのわがままな同居人さね。人間嫌いで、特に子供と動物を嫌がってね」

「あの時は、大変申し訳なかったです」

「それにしても、ここで二度もあんたと会うなんて、どんな偶然だろうねえ!」


 ローエはジュヌに背を向け、ぐっと伸びをした。


「僕は、どうしても魔女さんに会いたくて、来ました。あの時も、今も」


 振り返ると、ジュヌは思いつめた表情で、何かに耐えるように拳を握りしめていた。

 ローエは再び背を向け、ゆっくりと歩き出す。


「強い気持ちは、ときに奇跡的な偶然を引き寄せることもあるさ。あのねジュヌ、少し歩こうか」


 ワン、と返事をしたのはアマだった。ジュヌは黙って、三歩の距離を保ったままローエの後ろをついて歩く。

 崖から離れたところで、木々の合間から狼の群れが二人の前に現れた。


「うわっ! あ、危ない、魔女さん!」


 尻もちをついたジュヌを背に庇って、アマが唸り声を上げる。


「ああ、大丈夫。挨拶に来てくれただけさ。よしよし、このお客は悪い人じゃあないから、襲ってはいけないよ」


 そう言いながら、ローエはすり寄ってきた狼たちの頭を、順番に優しく撫でた。

 あの時、風の魔法で追い払った狼の群れも、今ではローエの遊び友達である。


「な、馴れてるの……?」

「驚いたかい?」


 狼たちの後ろ姿を見送り、ローエはジュヌを振り返って目を細めた。


「あの、どこまで行くんですか? 魔女さんの家?」

「いや、もう着くよ。ほら、ここは私が気に入っている場所さね」


 ローエが案内した先は、最初にジュヌと出会った日に青い鳥から教えてもらった、豊富な種類の草花が生息する小さな丘だった。


「私の住処すみかには呼べないよ。イムにまた怒られる。まあ、お座りなさい。ここからの眺めがいいのさ」


 ローエは杖を置いて、見晴らしのいい場所に座った。

 ジュヌはアマを間に挟んで、ローエの隣に座る。

 広がる森の木々は外の世界の存在を忘れさせるほどに濃く、吹き抜ける風は雲を常に新しい形へと作り変える。土と草花の匂いが二人と一匹を包み込むと、小鳥たちが一羽、また一羽と恐る恐る近づいてきた。


「これじゃあ、日が暮れるよ、ジュヌ」


 小鳥たちとたわむれていたローエは、隣でいつまでも無言でいるジュヌに言った。

 ジュヌは、いつの間にか眠ってしまっていたアマの背を撫でながら、まだためらっている。


「帰りが遅くなるとイムの機嫌が悪くなってね、わがままで困ったもんさね」

「魔女、さん」


 ジュヌの、アマに触れる手が細かく震えていることに、ローエは気づいている。


「もう一度、薬を作っていただくことは、できませんか」


 予想通りの言葉に、ローエは大きく息を吐いてジュヌを見た。


「あのね、そんなことだろうと思ったさ」

「母が、祖母と同じ病気を発症しました」

「なんとまあ」

「中年以降に発症する、遺伝性の難病なんだそうです。母も発症する可能性があると、祖母の主治医から言われてはいたのですが」

「お母さんは、おばあちゃんの娘だったのかい」

「はい。まだ治療法が確立されていなくて、病気の進行は止められないそうです。血流を促進する薬も、痛み止めも、ほぼ気休めでしかないと」

「あのね、じゃあ、あんたも?」

「そう、ですね。可能性はあるんでしょうが、女性の方が発症率が高いらしいんです。人によっては、発症せずに一生を終えると聞きました」

「……そう、かい」

「あの、魔女さん!」


 ジュヌが必死の形相でローエの正面に移動すると、周囲の小鳥たちが再び飛び立った。


「母の薬を作ってもらうには、いくら必要ですか!? 僕はもう働けますし、どんなに高額でも払います! どうかもう一度、薬を作ってもらえませんか!? お願いです……どうか」


 ジュヌは膝の上で拳を握りしめ、うつむいて震えた。ぽたぽたと、拳の甲に水滴が落ちる。


「泣き虫なのは変わらないね。あのね、いいから、顔をお上げなさい」


 ローエが言うと、ジュヌは拳で乱暴に涙を拭い顔を上げた。その目は真っ赤に充血している。


「あの時も言ったけど、わたしは金儲けのために薬を作っているわけじゃあないのさ。あのねジュヌ、薬を作るのは構わないよ」

「それじゃあ!?」

「ただ、あんたには選んでもらわないといけない。やまいは治せるよ。でもね、生きるはずの寿命が短くなる。強い薬には相応の副作用があるのさ」

「えっ、じゃあ祖母は」

「程度によっては、おばあちゃんももっと長生きしたさ。あの時は既に、かなり具合が悪かったから、とても強い薬を作るしかなくてね。でも、今度はそれでいいのかい?」


 ジュヌの瞳に戸惑いがよぎる。


「それで、とは……?」

「今、お母さんはどんな具合だい?」

「日常生活は送れています。時々、ひどく体を痛がる時があって」

「調整すれば、病の具合を今のまま留める程度にして、副作用を抑えることもできるさ。それなりに痛さは続くだろうけれどね」

「でも、じゃあ母は、早く死ぬことはない?」

「少なくとも、その病じゃあね」


 ジュヌは再び拳を握りしめ、顔を伏せた。


「そんなこと、できるんですか」

「魔女はね、隠し事はしても嘘はつかないのさ」

「僕は……母に、親孝行らしいことをひとつもしてないんです。母はずっと働き詰めで、苦労ばかりだったと思うんです」

「そうかい」

「だから魔女さん、母を、もっと、長生きさせてください。お願い、します」


 ジュヌは地面に額がつくほど、深く頭を下げた。


「あのねジュヌ、わかっているさ。頭をお上げなさい」


 ローエは立ち上がり、杖を頭上にかかげる。すると、一羽の青い鳥が杖の先にまった。


「あのね、治す薬と違って、少し時間がほしいのさ。できあがったらあんたのところに、この鳥を遣いに出すよ。そうしたら、またここにおいでなさい。絶対に、一人で」


 ローエが杖を軽く振ると、青い鳥はジュヌの肩に飛んで移動した。


「わかってます。魔女さんのことも、この場所も、誰にも言いません。約束します」

「いい子ね」


 ジュヌが再び潤み始めた目を擦ると、肩の鳥は日の傾き始めた橙色の空に羽ばたいていった。

 改めて立ち上がったジュヌの気配を察し、目覚めたアマが大きくあくびをする。


「どれくらいかかりますか、薬ができるまで」

「そうさね、数日かな」

「魔女さん、どうかお願いします。僕は待ってますから。帰ろう、アマ」


 ジュヌは力強くそう言い、まだ遊びたそうにしているアマを促して、去っていった。



❃ ❃ ❃



『ねえ、またあの薬を作るの!?』


 イムの不思議な色の瞳が大きく見開かれたのと同時に、揺らめく長い髪がぶわりと逆立った。


『ねえローエ、今度は誰よ? あの珍しい病気は、そうそう他の人はかからないないはずよ』


 奇跡的な偶然で再びジュヌに会い、彼の母のために薬が必要になった経緯をローエが説明すると、イムは腕を組んで顔をしかめた。逆立っていた髪が戻り、包むようにイムの身体に巻きつく。


『やっぱりお母さんだったの? ねえローエ、またあの男の子に会うなんて、そんなすごい偶然があるのね!』

「そうさね、わたしもさすがに驚いたさ」

『ねえローエ、男の子はその病気にかからないといいわね』

「……そう、さね」


 ローエの脳裏に、十歳のジュヌと、十九歳のジュヌの姿が並ぶ。


「あのねイム、その病に限らずだけど、人が病にかからないようにはできないのかい?」

『無理よ』


 即答だった。


『あたしは、病気を治す薬の作り方を知ってるけど、罹る前の病気は治せないわ。ねえ、ローエならわかるでしょ?』

「そう、さね……」

『ねえローエ、男の子のお母さんは、治すんじゃないの? ローエはそれでいいの?』

「いいのさ。ジュヌがそう望んでいるからね」

『ねえ、ローエらしくないわ!』

「あのねイム、わたしは自分がやりたいことをやっているだけさね」


 イムは納得がいかない様子であったが、最終的には『ローエのためなら、いいわ』と言い、二人で数日かけてすべての薬を用意した。

 神経をすり減らす細かい調整作業の連続にとても疲れたローエは、その夜、久しぶりにあの頃の夢を見た。


(人と出会っては、別れる。魔女の悲しい運命さね)


 いくら病気を治しても、人間はあっという間に歳を取って、ローエを置いていってしまう。人と近い場所で暮らしていた頃は充実していて、楽しさも煩わしさも全部が大切な思い出だが、それだけがとても悲しかった。

 イムと向き合って過ごす毎日にローエの心を乱すものは何一つなく、実に心地よい。しかしまったく変化がなく、年月の経過を忘れてしまう。

 そんな日常に飛び込んできたジュヌの存在は、ローエに成長と変化を思い出させた。背もぐんと大きくなり、声変わりをして立派な青年になったが、泣き虫で優しい心は変わらない。


 青い鳥が森の向こうへ羽ばたいていく。今日の天気も穏やかだ。

 ジュヌはきっと、あの丘までやって来るだろう。 

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