第218話 番外編 恭子先生次のステップへ進む 2

 カラオケボックスから出た二人は、恭子の家の方でも駅でもなく、土手の方向へ歩きだした。

 海江田をチラリと見上げた恭子は、手を繋ぐことも、ハグも、そしてキスさえもクリアできてしまったことに寂しさを感じていた。


 海江田と新しいことにチャレンジすることは、凄く恥ずかしくて……そして楽しかった。けれども、それももう目標は達成できてしまったのだ。海江田のおかげで、次に修平が恭子にキスを求めてくることがあっても、きっとうまくできるだろう。突き飛ばして逃げるなんてことはしなくてすみそうだった。


 目標達成した今、海江田との関係は終わるのだろうと沈んだ気持ちでいると、海江田が初めて一緒に座ったベンチまできて腰を下ろした。


「大丈夫? 嫌じゃなかった? 」


 隣りに浅めに腰かけた恭子の様子を伺いながら、海江田は少し顔を赤らめて聞いてきた。


「嫌……ではありませんでした。夢中になってしまって、あまり覚えてないんですけど……」

「僕も……」


 二人共、初めてで上級者レベルのキスまで到達してしまったというのに、まるで付き合いたての恋人同士のように、モジモジとお互いを正視できずにいた。


「あのさ! 」

「あの! 」


 しばらくの無言の後、まるで示し合わせたように二人の言葉がかぶる。


「あ……ぁ、恭子ちゃんから」


 海江田は、これを期に正式に付き合おうと言おうと思って声を上げたのだが、自分から告るのは初めての体験だった為、恭子に先を譲ってしまう。


「はあ……」


 先を譲られた恭子は、真剣な面持ちで意を決したように海江田に向き直った。そんな恭子を見た海江田は、もしかして恭子も自分と同じ気持ちになったのではないかと期待して、思わず頬が弛んだ。


「あの……、ありがとうございました」


 期待した唇からこぼれた言葉は、告白ではなく感謝の言葉だった。しかもこれでおしまいと言うような過去形の言葉。


「え……、ああ、うん」

「本当に、信也君には感謝しかないです。私の為に大事な時間までさいてくれて……、本当に申し訳なかったと思ってます」

「いや、別に……? 」


 恭子はしっかりと海江田の両手を掴み、胸の前に持ってくる。


「私、これで修平先生と心置きなくキスできると思います! 」

「……」


 今の海江田の状態を四文字熟語で表すとするて、まさに。一瞬、恭子が何を言っているのか理解できなかった。

 確かに、家庭教師にキスを迫られ拒絶した為にフラれてしまったと聞いていたし、そのことをきっかけに男性に馴れたいと海江田を練習台に頑張っていた訳で、終始恭子のベクトルは海江田には向いていなかった。けれど、スキンシップをとっているうちに、可愛らしく照れる恭子を見ているうちに、海江田は最初の目的をすっかり失念して勘違いしていた。

 実際には、恭子自身も気がついていないが海江田へ向かう気持ちがなくはなかったので、それが表情や態度に出ていた為、海江田は更に勘違いを深めてしまった訳だが……。


「信也君が、あんなに激しいキスをしてくれたおかげで、普通に唇が触れるくらいのキスなら怖くなくなりましたし、それ以上も対応できる自信になりました」


 それ以上……?


 思わず、恭子がどこの誰かもわからないオヤジ(高校生にとって二十後半はオヤジ扱いだった)と裸で抱き合っている姿がまざまざと思い浮かび、海江田のフリーズしていた思考がフル回転しだした。


「いや、あんなんじゃダメだよ! まだまだ足りないって」

「……そうでしょうか? 」

「たった一回キスできたくらいで慢心しちゃダメだ! 」

「一回……というか、一回に数回? しかもかなり濃厚でしたけど」

「…………確か、家庭教師の彼には婚約者がいるんだよね? 」


 海江田は、すっかり封印していた恭子から聞いた話しの記憶を掘り起こし、恭子がそこまで惚れている相手の情報を苦い思いで口にした。


「まあ……そうでしたね。でも、修平先生は最後には私を選んで……」

「本当に選ばれる為には、もっとキスが上達しないとだよ! 」

「はあ……」

「相手がメロメロになるようなテクニックを習得しなきゃだって」

「……私にできるでしょうか? 」

「君ならできる!! 」


 二人で手を握り合い、かなり近い位置で見つめ合った。


「また……協力してくださる? 」

「もちろんだよ!! っていうか、僕以外で試したらダメだよ。変な噂でもたったら大変だから」

「そうですわね。では、まだこれからも信也君とこうして会わないとですね」

「ああ! またカラオケボックスに行こう」

「毎回だと、お金がかかりますね」

「……じゃあ、一緒に勉強するって名目で進の家に集まるってのはどう? 」

「進君の家ですか? 」

「あいつ、超豪邸に住んでて、自分は離れの一軒家に部屋があるんだ。みんなで勉強するって言えば、家の人も変な勘繰りはしないんじゃないかな」

「でも、進君に迷惑じゃ……」

「いや、あいつも自然に美佐江ちゃんを家に呼ぶのにどうしたらいいかって悩んでたから、きっと週一回か二回の勉強会って名目で呼べれば絶対にのってくるよ。それ以外はカラオケボックスに行けばいいし」


 海江田とキスの練習をする為に、親友をだしに使うようで気が引けたが、提案するだけなら……とOKする。


「僕、進に聞いておくから、恭子ちゃんは美佐江ちゃんに声をかけて。太一達も誘った方がいいかな? 」

「そんなに部屋あるの? 」


 まさか、みんながいる前でチュッチュッするんじゃないよね? と、確認の為に聞いてみる。


「3DKって言うのかな。元は進達が住んでて、母屋はおじいちゃんおばあちゃんの家だったんだって。おじいちゃんが亡くなって、おばあちゃんが一人だと寂しいからって、両親だけ母屋に移動したんだ」


 いわゆる二世帯住宅のようなものだろうか?


 ご近所にある斎藤さんのうち(一軒の家に左右対称扉がついている二世帯住宅)を思い浮かべた。


「じゃあ、そういうことでいいよね。そうだ、僕ポケベル買ってもらったから、番号教えておくよ」

「ポケベルって……数字を打ち込んで文章にするやつ? 」

「そう。そうだな……、恭子ちゃんなら945で恭子ちゃんってことにしよう。最初に945って打ってよ。あとは、語呂合わせとかもあるけど、変換表の通りにうってもらえれば解読するし」

「変換表って? 」

「あいうえおだったら11・12・13・14・15。かきくけこは21・22・23・24・25。さ行は3、た行は4ってなってくやつ。知らない?」

「初めて聞きました。でも、できると思います。私の名前だけ945でよくて、こんにちはだったら25……」

「わをんは最初が0になるんだ。濁点や半濁点は04・05だな」

「半濁点? 」

「ぱぴぷぺぽみたいな丸。濁点はばびぶべぼ」

「25・03・52・42・61ですね」


 恭子は指を折りながら文章を数字に置き換えた。


「そう、それでこんにちは。覚え早いな」

「なんか、間違えそう」

「大丈夫、雰囲気で読むから。待ち合わせの時とか便利なんだ。945・15・23・94・35・13とかね」

「恭子、遅れそう……ですね。なるほど、確かに便利ですね」


 まだ携帯がメジャーじゃなく、ポケットベルを持ち始める若者が増えてきていた時代、海江田も両親に頼みこんで誕生日プレゼントにゲットしたばかりだった。

 もちろん、恭子と連絡をとる為だけに必要とした物だ。


 さっそく家に帰ったら海江田に感謝の意を送ろうと、文面を頭の中で数字変換していたら、海江田が辺りをキョロキョロと見て、素早く唇にチュッとしてきた。


「信也君、表ですよ」

「大丈夫、人いないから。うん、キスだけならもう大丈夫みたいだね。よし! 今日から僕も(キスの)勉強しよう」

「私もやり方とか勉強してみます。でも、教材は何がいいかしら? 」


 海江田の家には大学生の兄がおり、兄の部屋はそれこそ教材の宝庫であったが、まさかそれを恭子に貸す訳にもいかず、海江田はうーんと唸る。


「女の子向けにも少しエッチな雑誌とかあるのかな? 」

「ある……かもしれません。探してみます」


 前に雅子の家でお泊まり会をした時、三人で回し読みした雑誌のことを思い出す。

 エ◯ティーンとかいう雑誌だっただろうか? かなり内容が衝撃的で、三人でドギマギしながら読んでいた。キスでさえ敷居が高かった当時の恭子は、それ以上の行為など絶対に無理だと断言していた。雅子は付き合ったら当たり前だよとかなりオープンな意見だったし、美佐江はその時にならないとできるかどうかはわからないと言っていた。

 三人共通していたのは、まだまだ先の話しだよね……ということだった。


 恭子はさっそく本屋へ寄ってみると、海江田と手を繋いで駅の方向へ戻る。海江田は歩きながらも、人がいない隙をついて恭子の頬にキスしたり、唇を狙ってきたりした。


 傍から見ると、ただのバカップルなのだが、これで本人達は付き合っていないのである。


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