鞍馬が虎太郎を嫌いな理由
「おはようございます」
翌朝、部屋から出るとすでに待っていた飯綱がふんわりと微笑んで挨拶をしてきた。
私は予想外な展開にドアを開いた状態で思わずぽかんとしてしまう。
だって、まさかドアの前にいるなんて思わなかったから……。
「お、おはようございます。えぇっと……飯綱、だったっけ?」
「はい。飯綱やこと申します。やこ、とお呼び下さい」
「やこ……ね。分かったわ」
「はい。宜しくお願い致します」
そう言っておしとやかに頭を下げるやこ。
そう言えば、昨日もそうだったけど虎太郎と一緒で彼女も洋服を着てる。全然抵抗もなく違和感なく現代にも溶け込めてる感じ。
「やこも、虎太郎と一緒で現代に抵抗なく馴染めてるのね」
「えぇ。色々な時代を過ごしてきただけじゃなく、色々な場所に行き来していますから。その時代に違和感があっては問題でしょうから、時代に合ったものを着るようにしているんです」
ははぁ……なるほど。確かにそうよね。
そう言ってにこりと笑う彼女のおっとりとした姿は、本当にこれぞ日本人! って感じだわ。
「それでは、そろそろ学校に向かうお時間が迫っておりますので、参りましょう」
「あ……うん。あ、虎太郎は?」
私の背後で玄関先に座っていた犬姿の虎太郎。私が振り返ると人の姿になってにこやかに笑っている虎太郎が立っていた。
「え~何? 僕も行くよ~。僕だって加奈子の用心棒として来た訳だし」
用心棒……。何かそうやって聞くと凄い響きだわ。
それに、別に守ってもらうような事ないと思うんだけどなぁ……? まぁ、いいか。細かいことは気にしないでおこう。
女子寮は、学校まで徒歩10分圏内で行ける場所にある。
住宅密集地の中で、夜になると街灯はあっても暗がりではあるから危ないと言えば危ない。途中コンビニもあるからいざとなったらそこに逃げ込めるんだけどね。
「そう言えば、やこ。幸之助との連絡も取ってくれるって言っていたよね?」
「はい。ご希望であれば。連絡を取りますか?」
「そうだね。まだこっちに戻ってきてそんなに経ってないけど、どうしてるのか気になるし」
「かしこまりましたわ。では早速……」
やこは自分の髪の毛を一本抜くとそれにふぅっと息を吹きかける。すると不思議な事に絹のような髪の毛が煙になって狐の姿を象り、足早に空中を駆けて行った。
「半刻ほどで着きます」
「半刻……」
半刻って言うと約一時間くらいだったっけ? 何か、思ったより早く着くんだ。
「何て送ったの?」
「犬神の虎太郎と妖狐様の命により飯綱が加奈子殿の守護に当たります、と送りました」
そっか。一応一人じゃないよって事が伝われば、幸之助も安心するよね。
たぶん、思い上がりじゃなければ幸之助もそこを心配していたかもしれないし。
私はやこの言葉にホッとしていたけれど……。
連絡を受け取った幸之助が、その逆の状態になっているとは知らなかった。
◆◇◆◇◆
「そんな、まさか……」
黒川の屋敷の縁側で、管狐から連絡を受けた幸之助は茫然としていた。
飯綱はともかく、犬神が加奈子の傍にいるなんて……。
犬は主にとても忠実だ。絶対的に主を裏切ったりしない。いや、それはいい。そうではなく、虎太郎なんて名前から察するに男だろう。そんな男に加奈子が守られているなんて、安心するわけがない。心地よいはずがない。
こんな事ならやっぱり加奈子について行くべきだったのでは……と、幸之助はショックのあまり言葉にならず、しょんぼりと肩を落としてしまっていた。
そこへ通りかかった鞍馬が一人落ち込んでいる幸之助を見かけ、目を瞬いた。
「おう、狸奴。どういたぞね?」
「……犬神が」
「んん?」
「犬神が、加奈子殿の傍にいるんです」
幸之助のその言葉に鞍馬は一瞬ぽかんとした顔を浮かべるが、犬神と言う言葉に思い出したことがあり、驚いたように声を上げた。
「犬神!? 犬神言うたか!?」
「……言いましたけど」
「虎太郎か! あの虎太郎がお嬢さんの傍におるがか!?」
「そうですよ」
「っか~~! こりゃあ何の因果や! あいつ、今世でも流浪者として黒川につきまといゆうがかっ!」
鞍馬は「何てことだ!」と言いながら片手を額に当て、大袈裟なほど大きなため息を吐いた。
そんな彼の様子を見た幸之助は、“黒川につきまとう”と言う言葉に首を傾げる。
「どう言うことですか?」
「何や、おんし知らんがか? ……いや待て。そうか。虎太郎がおった時、狸奴はまだこんまい赤子の時やったからねゃ。覚えちゃあせんか」
「?」
何が何なのか分からずに顔を顰めている幸之助の隣に、鞍馬はどかっと腰を下ろしずいっと顔を近づけ当時の事を話始めた。そのあまりの剣幕に、思わず幸之助の耳がぺたりと寝る。
「……虎太郎はな、真吉殿が山で拾ってきた野犬じゃ」
「真吉殿が?」
真吉という言葉に寝ていた耳がぴくっと反応を示し、幸之助は驚いたように目を見開いた。
虎太郎と言う名前を聞いたのも初めてだが、真吉が拾って来たと言うのも初耳だ。自分が真吉に拾われるよりも先に他の誰かがあの家にいた事など知らなかった。
不満そうな顔を浮かべていた鞍馬は近づけていた顔を引くと腕を組み、鞍馬は鼻息荒く苛立った様子で話を続ける。
「真吉殿は山に山菜を採りに行った時に、行き倒れちょった野犬に飯を食わせ、不憫に思うて連れて帰ってきたがよ。虎太郎っちゅう名前も、真吉殿が与えたがやき」
それは真吉らしい。
あれだけ動物や人に対して一心に心を傾ける人だ。それは別に不思議だとは思わない。その話を聞いた幸之助には、むしろそんな真吉を誇らしくさえ思えた。
「鞍馬はその虎太郎殿に対して、なぜそんなに苛立たしく思っているんですか?」
「あいつは恩義ある真吉殿に不義を働いたも同然じゃ! 命を助けてもらっちょいて、あっちこっちでええ顔をして飯を食わせてもらいよったに、一向に真吉殿に懐こうとせんかった。真吉殿もなかなか家に居着かん虎太郎の事をしばらく気にはしよったようやけんど、その内なかなかもんて来ん虎太郎のことは諦めた」
「……」
「わしはあいつがどうにも好かん! 恩義あるなら傍におって忠義を尽くすがぁが礼儀やろう? あいつはそれを最後までせんかった。口では何ぼでも恩を感じゆう言うたち、態度があれじゃあ納得せぇ言う方が無理があるに決まっとろうが!」
息まく鞍馬に、幸之助は瞬間的に言葉が出てこなかった。
鞍馬が言っているのが本当なら、虎太郎は加奈子にも同じような事をするのだろうか?
猫であった自分から見れば、犬と言うのは常に主人を守るために忠誠を尽くすものだとばかり思っていた。確かに、江戸の時代では家に犬が居つく方が珍しいともされていた時代ではあるが……。
加奈子はきっと虎太郎に対しても真吉と変わらぬ信頼を寄せているだろう。彼女は真吉と同じでとても心優しい人だから……。でも、もしも虎太郎がそんな加奈子の想いに背くような事があったとしたら、加奈子が悲しむのではないか。そう思うと胸がざわめいて仕方がない。
膝の上に置いていた手をぎゅっと握り締め、幸之助は眉根を寄せた。
「あなたのいう事が本当なんだとしたら、虎太郎殿は加奈子殿にも真吉殿と同じことをする可能性があると言う事ですよね?」
「可能性はあるやろう。あの流浪者が、同じ場所に居着くとは思えん」
ふんっと鼻息荒く、「気に入らん」とブツブツ呟く鞍馬に幸之助は耳を垂れたまま顔を顰めた。
確かに、自分ではない他の男が加奈子の傍にいる。そう思うだけで胸がざわざわと落ち着かない。でも今自分はここを離れられないし、離れたとしても加奈子の傍に行く事は出来ないのだ。
そもそも従来の日本犬は家と家主を守ることに長けているもの。その点で考えればおいそれと不義を働くとは思えないし、ある意味では安心と言えるはず。信じたい、と言うよりも信じなければどうにも落ち着きそうになかった。もし今ここに真吉がいたとしたら、決して虎太郎のことを責めるような事は言わないだろう。むしろ「あいつはもともと野良やき、自由にしよるんが一番性に合うがやろう」と言っているに違いない。
何より、今加奈子の傍にいるのは虎太郎だけじゃない。飯綱も一緒にいるのだ。ならば不安に思う事もないのではないか。
そう思うと、幸之助はふぅ、と息を吐いた。
「……私は、虎太郎殿を信じてみようと思います」
「何!? あいつを信用するがか!?」
「はい。何より飯綱も一緒にいて下さるんです。それなら問題はないでしょう」
「そがに言うたちおんし、分かっちゅうがか?! 虎太郎はお譲さんと一緒におるがやぞ?! 真吉殿とは訳がちゃうんやぞ!?」
そこを言われると胸が疼く。それでもそうするしかない。
ここを去る前の加奈子の言葉を思い返しては、もどかしさばかりが積る。それでも、今まで自分がそうして来たように、私情だけで動いては加奈子がやり遂げようとしていることの邪魔にもなりかねない。
幸之助は目を閉じて、浅く息を吐いた。
「分かってます。それでも、私は加奈子殿の成し遂げようとしている事の妨げにはなりたくありません」
きっぱりとそう言い切れば、今度は鞍馬の方がもどかしそうに顔を歪め何かを言いたそうにぱくぱくと口を開いていた。が、やがて「おんしがそこまで言うんやったら、わしはもう言わんことにする」と、不満たらたらな顔のまま顔を逸らした。
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