芽吹き
「こ、幸之助?」
盗み聞きをするつもりは無かったんだよ、と言い訳がましい考えを胸に、ぎこちない笑みを浮かべて声をかけると、幸之助は意図せずに手元から杯を落としてしまう。落とした杯は彼の膝の上をコロコロと転がり、そのまま縁側から落ちて割れてしまった。
「あ、杯が……」
いつもだったらすぐに反応をするはずの幸之助が動かないから、私が拾いに行こうとすると幸之助が音もなくすっと立ち上がって、私の前まで大股で歩いて来る。
いつもは静かに足音を立てずに歩くことが多い幸之助が、珍しく足音を立てて近づいて来るから、驚いた私は咄嗟に動けなくなった。
あ、あれ? どうしよう。やっぱり怒ってる?
そりゃそうよね……意図せずとも盗み聞きしたんだもの、いくら温和な幸之助だって怒らないわけがない。
「ご、ごめん。別に盗み聞きするつもりじゃ……」
目の前に立った幸之助に咄嗟に私は謝った。
彼の顔は暗がりでよく見えなかったけど、突然ぐいっと腕を掴まれて引き寄せられ、抵抗する間もなく柔らかく温かいものにあれよあれよと言う間に包み込まれた。
「……?!」
あまりに予想だにしない突然の出来事に、瞬間的に頭の中が真っ白になる。
満月が浮ぶ縁側で、私は幸之助に何も言われないまま強く抱きすくめられると、肩にかけていたタオルがふさりと足元に落ちた。
言葉もない。息が詰まりそうなほどの、無言の力強い抱擁。
鼻先に掠めるのは、微かなお線香の良い香りだった。
私の肩口に幸之助の顔が埋められると、それまで忘れていた熱が急に呼び起こされてカーっと熱が昇り、全身が赤く染め上がったのを自分でも感じていた。
な、な、なななななな、何事!? これは一体、何事なの!?
「こ、こ、幸之助……?!」
「……ぃ」
パニックになりながらもう一度声をかけると、幸之助はボソッと何かを呟いた。それがあまりに小さくて聞き取れない。
「え? 何?」
「……行かないで下さい」
その言葉が聞こえた瞬間、胸がギューッと締め付けられた。
それはつまり……どういう意味で?
バクバクと早鐘のように心臓が鳴り始めるのを聞きながらも、頭の片隅では冷静さを保とうとしている自分に努めて意識を集中した。
片時も離れたくないんだと言う、きっと幸之助の本音がこぼれ出た瞬間だったんだろうけれど、それはつまり、ただ主に対する想いなだけなのかもしれないし……。
頭の中は突然のエンスト状態で自分でもよく分からない中、幸之助は猫がそうするように私の首筋に頬を摺り寄せてきた。
「こっ!? こ、ここここ幸之助?!」
自分でも驚くぐらい最初の声がひっくり返ってしまった。
もう一回お風呂に入らなきゃいけないんじゃないかってくらい、緊張から汗がだらだらと流れて来る。
「どこへも行かないで、私の傍にいて欲しいんです……ずっと」
「……幸之助?」
「……」
自分の煩い胸の鼓動を聞きながら、少しだけ躊躇いつつもゆるゆると幸之助の体を抱きしめ返す。
私よりも体が大きくて見た目も立派な青年なのに、妖狐や鞍馬から見ればまだ小さな子供と同じだなんて信じられない。そう思うのは私が普通の人間だからなんだろうけど。現にこうやって抱きすくめられたら身動きできないくらいだもの。
ギリギリ元々の自我を保ちながら、幸之助の苦しかったであろう心に寄り添う言葉を忙しく探す。
「我慢、してたんだ。ずっと本音が言えなくて苦しかったよね……。本当の事聞かせてくれてありがとう」
「……」
私も本当は幸之助と片時も離れたくないよ。
そう言おうとしたら彼の体がするすると縮んで黒猫に戻り、私の腕の中にすっぽり収まった。見てみれば、幸之助はそのまま眠ってしまっていて……。
「お! お嬢さん、長風呂やったねゃ! 随分火照っちゅうみたいやいか! ほどほどにせんとぶっ倒れるぜよ!」
へらへらと笑いながら千鳥足になっている鞍馬が、縁側の向こうからでかい声でそう声をかけてくるのに、私はまだ落ち着かない心臓に顔を赤らめたまま視線を逸らした。
「お。何? 狸奴はもう寝たんか?」
鞍馬が私の胸に抱かれている幸之助を見て、時々しゃっくりをしながらそう呟いた。
「そ、そうみたい。鞍馬もお酒飲みすぎよ。もう寝たら?」
「おお、そうやねゃ! そうするわ! ほんなら、お休みぃ!」
鞍馬は上座敷の障子をスパーン! と勢いよく開けてそのまま座敷の上にゴロリとひっくり返り、乱れた着物もそのままにぐーすか眠ってしまった。
早……。て言うか、あんなに寝たのにまだ寝れるんだ。ある意味凄い。
私は腕に抱いている幸之助を見下ろし、そっとその横顔を指先で撫でてみた。するとピクピクっと耳を動かしはするものの、彼もまた起きる気配がない。
「……さっきのはどう言う意味があったのよ」
一人で赤い顔してる私のことは、どうしてくれるの。
鞍馬にタオルケットをかけ、彼の傍に座布団を置いてその上に幸之助を寝かせて、私は徳利と杯を洗うために炊事場に向かった。
「……」
桶に水を張ってその中で食器類を洗うのだけど……。さっきの事を思い出すと、まるで手に着かない。水に手を付けたままぼんやりと、水の中に浮ぶ酒器を見つめる。
あれは、何だったんだろう。幸之助の方からあんな風に激情的に抱きしめてくることは今まで無かったし、そもそも私がいつも抱きしめる側だったから困惑してしまう。それにあの抱擁には、あの言葉には、主に対する忠誠心として意外に、他に何か意味があったんだろうか?
考えれば考えるほど分からなくなってくる。でも純粋に考えて幸之助は主と離れたくないとと言う路線の方が強いと思う。そうだとしたら今こんなに悩んでいる私は、単なる勘違いな人ってわけで……。
「えぇぇえぇ……分かんない……」
分かんないと言いながらも、「勘違いしたい」と思っている自分がいるのも否めない。
幸之助は子供みたいに純粋だけど、大人っぽい一面も持っていて色々と頼りになる存在。きっと「彼氏にしたい選手権」があったとしたら、彼はダントツ一位を採れちゃうんじゃないかって思う。容姿もいい、礼儀もしっかりしてるし、非の打ちどころがない。いや、あるとしたら自分の気持ちを押し込めちゃうくらいだろうか。あと無自覚な無防備さ。あれはもう罪とも呼べるレベルだと思う。あれはずるい。世の女の子が、狙っている男性相手に対して使う真似したいものの一つだと思うわ。
「まんまと私は、彼のそのハニートラップに捕まってるんだわ……」
そうよ。あれはもはやハニートラップって言ってもいい。
なんて、色々しょうもない事を考えている自分に深い溜息が零れた。
きっと幸之助のことだから、明日の朝になったらさっきの事なんてすっかり忘れてて、いつもみたいにニコニコとしてるに違いないわ。うん、そうよ。だって無自覚なんだもの。
……何だろう。何か、そう思うと面白くない。
私は自分の考えに一喜一憂してることにまたため息を漏らしながら。とにかく今は目の前の酒器をがしがしと洗った。
翌朝。
結局寝付く間際まで色々とああでもないこうでもないと一人考えてしまって、ちゃんと寝れた気がしない。
「瞼が重たい……」
布団から起き上がってあくびを一つしてから、私は布団を畳んで炊事場の方へと向かった。するとそこにはいつも通り、きちんと着物を着て袂を襷で結んで朝餉の準備をしている幸之助の後姿がある。
私は彼の姿を見た瞬間、異常に意識してしまっている自分に戸惑った。けど、きっと幸之助は今まで通りなんだろうと思うと、戸惑ってる自分がバカらしくさえ思える。
こういう時はいつも通りにやり過ごすのが一番だわ。変に意識するからダメなのよ。
「おはよう、幸之助」
昨日抱きしめられたからってすぐに勘違いしちゃう私って、実は相当チョロいのかもしれない。そう考えたら、我ながらどうかと思っちゃうわ。
なんて思いながら苦笑いを浮かべた。
「?」
その時ふと、幸之助から返事が無いことに気付いて私は首を傾げた。
いつもならすぐに満面の笑みで「おはようございます」って答えてくれるのに。
「幸之助?」
不思議に思った私が幸之助の傍に行ってひょいっと顔を覗き込もうとすると、それに合わせるかのように幸之助が顔を逸らした。
「……おはようございます」
私の方を見ずにやっとそう答えた幸之助に、私はふと具合でも悪いんじゃないかと心配になった。
「大丈夫? 具合悪いの? 昨日結構お酒飲んでたみたいだし……」
「い、いえ、大丈夫です」
慌てふためいてパッとこっちを振り返った幸之助とばっちり視線がかち合う。その瞬間、彼の顔がぶわーッと赤くなりまたそっぽを向いてしまった。
え……。何今の反応……。
それを見てしまった私まで、つられてカーっと赤くなってしまう。
な、何でそこで赤くなるの? ちょっと、意識しないようにしようって今さっき決めたばっかりなのに、そんな……無理だよ。
「き、昨日はすみませんでした。酔っていたとはいえ、加奈子殿に失礼なことを……」
「……お、覚えてるんだ?」
「……微かに」
耳をぺたんと倒して顔を背けたまま赤くなっている幸之助に、私が勘違いをしたいと考えていた路線が有力そうだと分かると、私も口ごもってしまった。
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