夢を治す医者



 ――そうだよ。秀樹先生は殺されたんだ。総管理局のクズどもに。


 夏芽の怒りのこもったその言葉を聞いた瞬間、直樹の心の中でくすぶっていた黒い感情が一気に溢れだした。


 辺り一面真っ白な空間が足元から拡がる黒いもやのようなものに侵食されていく。完全な黒で支配された世界に存在しているのは直樹一人だった。夏芽の姿も、靄に呑み込まれたように跡形もなく消えてしまっている。


「佐久間が総管理局に忍び込んだのはなぜだと思う? 弟子である彼は、秀樹先生を慕っていた。総管理局が秀樹先生を事故に見せかけ殺したと知った時、奴は復讐を誓ったようだ。けれど、所詮人間。総管理局の連中となにも変わりはしない」


 夏芽の声がどこからともなく聞こえてきて、このなにも無い黒い空間に響き渡る。彼女はさらに続ける。


「佐久間の復讐も、秀樹先生も、最後の希望だった風花のことも。もう全てどうでもいい。人間に期待すること自体が間違いだったんだ。この世界など、人間など、私が全て壊し尽くしてやる」


 怒りに震える夏芽の声は徐々に小さくなっていき、音も色も光も全てが黒い靄に呑み込まれて、ただ一つ無だけが直樹の周りを覆っている。


 直樹は自身の手のひらを見つめた。暗闇の中、ぼんやりと見える手が徐々に靄に呑み込まれていくのを、ただ見つめることしかできない。足先から、下半身、上半身と身体が黒く染まっていく。心が、黒い感情の底へと沈んでいく。


 ――俺がやってきたことって、なんなんだ? 俺はなんのために戦ってたんだろう。なにも知らず表面のことしか分からず、愚直に獏を悪だと傷付けて、なんの罪もない枢木一族の命を奪った奴らを助けてただけだった。俺もあいつらとなにも変わらないのか?


 直樹は目を閉じて自問自答を繰り返した。繰り返したところで答えなんてあるはずもなく、さらに底へと向かって心が沈んでいく。

 そんな直樹の耳元で、姿を消したはずの夏芽の声が響いた。


「そう。なにも変わらない。お前がしてきたことは全部、私達一族や獏達を傷付けていただけ。罪でしかない。お前が戦うべき相手はずっとすぐそばにいたというのに」


 ――敵はすぐそばに。俺が殺さなきゃいけなかったのは……。


「くだらない人間が自然を蔑ろにして造り上げた、“アイエンスシティ”はほんとうに必要なのか? 人間は必要なのか?」


 ――自然を壊し森の守り神を殺してもなお非を認めず、まだ壊し続けるなら……。


「お前が壊さなきゃいけないのは?」


 ――人間だ。


 ぱん、となにかが心の底で弾けたのを直樹は感じた。黒一色だった世界が真っ赤に染まっていく。心も赤く腫れてただれていく。

 自分が自分でなくなっていくような気味の悪い感覚。腫れあがった心を押さえる術を直樹は知らない。その上もがく冷静さも失っていた。


 ――俺がD.Dとしての最後の責任を果たさなきゃ――。



「D.Dはそんな責任を果たすために創られたわけじゃないよ、直樹」


 怒りや憎しみが混ざった赤い感情に呑まれそうになっていた直樹は、はっとして目を開いた。真っ赤に染まった世界に一筋の光がどこからともなく差し込んできている。

 優しい声はその光の中から聞こえたようだった。

 懐かしい声だった。ずっと、聞きたかった声。求め続けた声。


「風花……なのか。そこにいるのか……?」


「私はずっとここに、直樹のそばにいたんだよ」


 優しい声が直樹の問いに答えた瞬間、真っ赤だった世界が眩しいほどの光で溢れた。思わず目を細めた直樹は、光の中にうっすらと浮かぶ人影を見つけた。人影は少しづつはっきりと姿を形作っていく。

 線の細い華奢な身体に白のセーター。花のようなシフォンスカートに身を包んだ美しい女性は、二年前のあの日、リュウの手によって削除デリートされた、井上風花いのうえふうかその人だった。


 風花の顔を見た瞬間、彼女が消えてからの二年間ずっと抑え込んできた後悔と怒りが涙となって溢れ出した。涙はダムが決壊したように次から次へと溢れ出してくる。


「俺は……お前たちを守れなかった……守るって、約束したのに」


 風花は幼い頃に獏に両親の夢を喰われ、自身の両親と同じような悲劇を起こさないために秀樹の元で強くなる道を選んだ。つかさも同じだ。両親の敵討ちのために強くなることを選んだ。

 両親がいないことに関しては直樹も二人と変わりはない。けれど、直樹の両親は獏にやられたわけじゃない。元々いなかったようなものだ。悲しみの大きさは二人の方が数倍大きい。誰が何と言おうと直樹はそう思っている。


 だからこそ。


 ――自分が二人を絶対に守ると、秀樹の訃報が届いた時に誓った。はずなのに。


「お前を守れなくて、つかさは自分があの場にいなかったせいじゃないかって今でも自分を責めてる。俺が全部悪いのに……!」


 感情が高ぶって息が、声が荒くなっていく。涙で顔がぐしゃぐしゃになっても、直樹は溢れ出す感情を抑えることができなかった。

 この二年間、ずっと思わないように、見ないようにしてきた考えは気付けば直樹の口から飛び出してしまっていた。


「風花じゃなくて……俺がいなくなるべきだった!」


 ほとんど叫びに近い言葉だった。激しい嗚咽で喋ることができなくなった直樹の頬に白くて温かい手がそっと触れる。久しぶりに感じた人の温もりに直樹はびくっと背中を震わせた。


「そんなこと言わないで。私はあなたに前を向いていてほしいの。いつも遠くにある未来を見ていたあなたが、大好きなんだから」


 両手で直樹の頬を挟む風花の口元にはとても優しい笑みが浮かんでいるが、瞳はどこか寂しそうな色をしていた。

 直樹は駄々をこねる子供のように頭を横に振って、絞り出すように言葉を重ねる。


「でも……! 風花がいなくなったあとも、俺が正しいと思ってやってきたことは全部間違いだった! 俺はなにを信じたら……もう、人間なんて壊すしか……俺もみんなも」


削除デリートはいったいなんのために造られた能力ちからだと思う?」


 風花の当然の問いに直樹は泣くのをやめてじっと瞳を見つめる。風花も同じように直樹の瞳を見つめ返した。


 削除デリートは秀樹の造った三体のアンドロイド固有の能力ちからで、獏に唯一対抗できる手段――ということしか秀樹からは聞いていない。秀樹が亡くなったあと、彼が生前使用していたコンピューターを探ったものの、直樹には資料らしきものは一つも見つけることができなかった。

 腕で涙を拭い、なんとか呼吸を整えて問いに答える。


削除デリートは獏を消してしまうものじゃないのか?」


 風花は目を閉じて首を横に振る。


「ううん。そうじゃないの。削除デリートはね、獏の痛みを、傷を削除デリートするものなんだよ。私たちD.Dは武器で対抗しなければ獏に勝てはしないし、人々のことも守れない。あの頃の獏は心だけの存在だったけど、夢の中で受けた傷は蓄積されて心はそのうち消滅してしまうの。けれどヌシを、仲間を殺されて悲しんでいるだけの獏を消滅させてしまうことを嘆いた先生は、削除デリートという能力ちからを、自身が開発したアンドロイドに備え付けた。それがカレンたち」


 風花の閉じられていた目が開いて、直樹の視線とぶつかる。


「獏はみんなここにいるよ」


 風花の言葉で、彼女の背後がさらに強い光を放ち始めた。光の中から現れた“それ”は、冬樹の心の中で見た彼らの神、獏のヌシだった。その周りには様々な体格の獏たちが従えるように並んでいる。


 象のように長い鼻、サイのような目、筋肉質な胴体に、虎のように鋭い爪を携えた太く逞しい脚。

 他の獏よりも少し老いたように見えるヌシの赤い瞳はやはり優しかった。

 風花はヌシに位置を譲るように後ろに下がると、ヌシは一歩近付いて

 直樹の目線に合わせるように頭を下げた。赤い瞳からはとても強い意志を感じる。


(お前が大門秀樹の息子か)


 頭の中に直接声が響いてくる。ゆっくりと、低い、けれど優しく耳に馴染む声でヌシは語り出した。


(全てはお前たち人間の欲望が生み出した悲劇だ。私のを殺し、夏芽を追い詰めたお前たち人間を私は簡単に許すことはできない)


 優しい赤い瞳。けれどその瞳の意志の力は強く、見つめられた直樹はまるで射抜かれたかのように動けなくなっていた。ヌシの言葉は正しく、反論する余地もない。ヌシは続ける。


(しかし、瀕死であった夏芽を助けた大門秀樹、怒りでなにも見えなくなっていた私の攻撃を受けながらも、愛する者たちのため自身の命と引き換えに止めようとしたそこにいる風花。この二人の存在が、私の怒りで曇った目を洗ったのだ)


「二年前のあの日。消えそうになっていた時、ヌシの声が聞こえてきたの。真っ赤な感情だった。私にはどうしてこんなにも獏が怒っているのか分からなかった。気付けば、私はヌシの心に触れていた。その時に全てを知ったわ。私たち人間の過ちを。先生の苦悩も。D.Dは悲劇から生まれたことをね」


 風花は寂しそうな瞳をしていた。口元には微かな笑みが浮かんでいたが、無理に笑おうとしているのは明らかだった。見ているのが辛くて直樹は俯いて次の言葉を待つ。言葉を繋げたのはヌシだった。


(私は十三年前、人間共に傷付けられ力を失い、身体、心を保つことができなくなってしまった。私の力を源にしている子どもたちも身体を失い、心だけの存在になってしまったのだ。人間の夢の中に現れたのは、夢の中でしか彼らは活動できなかったからだ。彼らが心を喰らい続け力を蓄えたことで、二年前、十一年もかかってしまったが力を、心を取り戻した私は怒りに身を任せ人間の夢に喰らいついた。それがこの娘の夢だったというわけだ。そして、お前たち人間に倒されたその時私の身体の傷が癒えたこと、夏芽や冬樹の心の記憶から大門秀樹が人間でありながら夏芽を助け、はては枢木一族、獏すらも救おうとしていることを知ったのだ。全ての真実を知っているということで恐れを抱いた人間に、彼が殺されたということもな)


「先生はね、獏の存在にずっと疑問を抱いていたみたいなの。だから、元総管理局本部所属の科学者であり助手でもあった西川玲子さいかわれいこさんに本部の大事な資料データの一部を持ち出すことに協力してもらって、そのデータから総管理局がひた隠しにしていた恐ろしい過去を知った。そして、枢木の森を訪れて瀕死だった夏芽ちゃんと出会ったみたい。そこで夏芽ちゃんを助けて、ある約束をしたの、また――」


「会いに来る。だろ?」


 風花の言葉を遮って直樹の口から飛び出した言葉は、くだらない人生に光を差した言葉でもあった。言おうとしていた言葉を先読みされて、少し驚いた表情を浮かべる風花。直樹ははは、と乾いた笑いを空間に響かせた。


「父さんならそう言うだろうと思ったよ。けど、肝心なこと俺たちに伝えもせずに死んじまうんだもんなぁ……」


 ヌシと風花、二人の口から次々に語られる真実はどれも悲しみを孕んでいる。秀樹が総管理局の人間によって殺されたのは事実で到底許せることではないが、秀樹が総管理局を恨むような人間ではないことも、ましてや直樹が復讐することを喜ばないこともよく分かっていた。


「でもさぁ……俺たちが終わらせないとだめなんだよなぁ。そのために父さんは自分の夢を託したんだよな。みんなの夢を治したいって夢をさ。俺たちはDreamドリーム Doctorドクターなんだから」


 真っ赤に染まった心が少しずつほどけて、暖かい光に包まれていく。風花の口元にも柔らかい笑みが浮かぶ。



「ほんとうにくだらないよ。お前たち人間はそうやってまた理想を並べ立てて、裏切る」


 怒りに震えたその声は背後から突然響いた。

 振り返るとそこには黒い靄が浮かび上がっていた。靄は徐々に人の形を作り、俯き長い髪を垂らした夏芽へと姿を変えた。彼女の周りには靄が不気味に漂っている.


「夏芽ちゃん、違うの。先生は夏芽ちゃんのことをずっと心配してた。だから、私たちに夢を託して――」


「秀樹先生は会いには来なかった!」


 黒い靄を纏った夏芽は風花の説得を遮って声を張り上げる。


「……ずっと待っていたのに」


 消え入るような声で呟いた言葉は、この言葉こそが彼女の本心なのかもしれなかった。


「夏芽ちゃん。秀樹先生はもういないけれど、私たちが今度こそ終わりにするわ! だからもう一度信じて」


「俺がなにも知らなかったせいで佐久間を暴走させてしまって、夏芽には辛い思いをさせたけど、これからは俺が責任持って枢木一族の森も再建してみせる。だから、信じてほしい」


「うるさい! うるさい! 人間なんて嫌いだ! 消えてなくなってしまえばいい!」


 直樹と風花の言葉は、夏芽には届かない。二人の言葉を拒絶するように長い髪を振り乱して頭を振っている。靄は範囲を拡大させながら、夏芽の身体を呑み込んでいった。


 止めようと近付いてみるものの、黒い靄が直樹を阻みこれ以上近付けばこちらまで呑み込まれてしまいそうだ。風花も同様のようで、二人とも夏芽に近付けないでいた。



(もう一人で抱え込まなくていいのだ、夏芽。一人にしてすまなかった)


 直樹と風花の背後。口を閉ざしていたヌシが大きな身体を乗り出して、黒い靄を纏った夏芽に象のように長い鼻を近付ける。近付けた鼻を夏芽の頭にぽん、と優しく乗せた。


 その瞬間黒い靄が霧散し、けがれを知らない無垢な瞳を大きく開く夏芽が姿を現した。

 さっきまで溢れ出していた怒りや悲しみの感情は跡形もなく消えていて、彼女の大きな瞳からは大粒の涙が溜まり今にも溢れだしそうだ。


(皆、待っている。森へ帰ろう。私たちの森へ。私は先に森へ行き、お前の帰りを待つことにしよう)


「う……あぁぁ!」


 溜まっていた涙が一気に溢れだし、まるで小さな子供が泣きじゃくるように夏芽はその場にくずおれた。


 ヌシや夏芽の周りを取り囲む獏たちが、少しずつ光に包まれていく。ヌシはその優しい赤い瞳を、直樹に真っ直ぐと向けた。


(人間は罪を犯した。たくさんの生き物を傷つけ、これからも傷つけていくだろう。たが、お前たち人間を私たちは信じることにしよう。傷つけるのは人間だが、癒すのもまた、人間だからだ。それがお前たちDream Doctorドリームドクターの仕事なのだろう? 私たちの夢をお前たちに託そう――)


 直樹が強く頷くと、ヌシは満足そうに目を細めた。



「私もそろそろお別れみたい」


 風花はそう言って微笑んだ。隣に立つ彼女の身体も獏たちと同じ光に包まれ、心なしか身体が薄くなり始めている気がした。きっとそれが気のせいではないことも、直樹には分かっていた。けれど、認めるのは辛かった。


削除デリートは癒すための力なんじゃないのか? なら、お前のことだって――」


 目を閉じて、横に首を振る風花。


「確かに削除デリートは傷や痛みを消す能力ちからだけれど、人の夢……つまり心に心を介入させることができる獏だからこそ、なの。削除デリートはあくまで心を癒す能力ちからだから、データ化された私の身体は癒せない。ここにこうやって出てこられたのもリュウのおかげ。それももう、弱くなってるから」


 ――あぁ。そんなこと。聞かなくても予想はついていたのに。


 直樹はもう涙を流さなかった。最後の最後で、風花に心配させるわけにはいかないと思った。

 すっと右手を差し出す。目の前に差し出された直樹の右手を見つめて、風花は少し寂しそうに言った。


「最後なのに抱きしめてくれないの? 意地悪」


「抱きしめたら離れられなくなるだろ。それともまた俺の情けない泣き顔見たいか?」


 直樹がにやっと笑ってそう言うと、風花は「あはは」と心から楽しそうに声を上げて笑った。


「それはちょっとノーサンキューかな」




「身体壊さないように気をつけてね」


「お気遣いどうも」


 二人は握手をして、お互いの顔を脳裏に焼き付けるようにしっかりと見つめ合った。二人の表情はすっきりと晴れ渡っていた。


 先に手を離したのは風花だった。ぱっと握っていた手を離すと、シフォンスカートをふわっと翻して背を向けた。


「もうちょっと言うことないかなぁ! 全くもう」


 怒ったようなその言葉を話す声色は、ちっとも怒ってはいない。風花はさらに続ける。


「リュウは今どうしてる?」


 リュウ。風花の助手であった三体のアンドロイドの一体。少年の姿をしたリュウは、二年前、ヌシもろとも風花を削除デリートした。そのおかげでカレンと直樹は現実に戻ってこれたわけだが、彼自身も身体の損傷が激しく――、


「リュウは損傷が激しくて戻ってこれなかった」


「……そっか。カレンとつかさにもよろしく言っといてね!」


 悲しんでいるのは背中越しからでも分かった。いつもなら直樹がはっきりと気持ちを言うなんてほとんどない。照れくさいからだ。

 それでもこんな風に自身の気持ちを素直に言うつもりになったのは、悲しいくせに明るく努める風花のことをとても、愛しいと思ったからだった。


「風花。今まで愛してくれてありがとう。俺に愛を教えてくれてありがとう。……愛してる」


「……そういうのずるいよ」


 俄然背を向けたままの風花の肩が、少し震えている。


「私も愛してる。けど、今日で私は直樹の恋人じゃなくなるから! ……だから、もっとすぐそばの想いに気付いてあげて。直樹はもう未来に進んでいいんだよ」


「は? なんのこと言ってるんだよ」


 風花の言葉の意図が掴めなくて首を傾げる直樹。風花は呆れたように溜息をつき、「鈍感!」と言いながら身体をくるっと回して、二人は向かい合った。


「彩ちゃんのこと、守ってあげてね。直樹!」


 そう言った風花の頬には一筋の涙の跡がついていた。瞬間、彼女を包んでいた光は一層強くなり、視界は光で溢れ前が見えなくなった。



 弱さを見せること嫌った愛しい人の涙の跡を、直樹は気付かないふりをした。




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