師と二人の弟子


 九十九階にジルを残し、一人最上階を目指して走り続けていたつかさは、巨大な鉄の扉の前でようやく足を止めた。乱れた呼吸と脈打つ心臓を整えるために深呼吸を繰り返す。数十秒もあれば徐々に落ち着いてきて、つかさは改めて、目の前に立ちはだかる巨大な扉を見上げた。


 システムルームに通じるこの扉には、当然ロックがかかっているだろう。しかしこれくらいのシステムならば、つかさにとってロックを解除することなど容易だった。


 数分後、扉は重い音を響かせながらゆっくりと開き始めた。佐久間にはもうすでに気付かれているだろう。この中にいるのか、別の場所にいるのかは分からないが、佐久間に乗っ取られたシステムのロックを解除するということは、相手に居場所を教えるようなものだ。

 余計な事を考えている時間が惜しく、少し開いた扉の隙間から滑り込むように中に入り、システムを制御しているメインコンピューターに駆け寄った。早速作業に取り掛かる。


 少し時間が確保できればよかった。システムにさえログインできれば――。



「おやおや、随分早いじゃないか。君ならシステムの奪還を一番に考えると思っていたよ」


「もう来たのか。もうちょっとゆっくり来てもらいたかったんだが……そうもいかなかったみたいだな」


 背後の扉がゆっくりと閉じる音と共に、首謀者の声がこのシステムルームに響き渡る。つかさは作業する手を止めて、佐久間と向き合った。

 システムへのログインはまだ完了していない。もう少しのところで佐久間と相対してしまったのだった。


 眼鏡の奥で光る佐久間の冷たい瞳が、射貫くようにつかさを捉えて離さない。口元は笑みを浮かべているのに目は一切笑っていないのが不自然で、言いようのない居心地の悪さをつかさは感じていた。それを悟られぬよう余裕の表情を浮かべ、言葉を繋ぐ。


「オリヴィアはジルが足止めしてる。じきにジルもここに来るだろう。どこにも逃げ場はない。これ以上罪を重ねるのは賢いとは言えないんじゃないか?」


 つかさの煽りとも取れる忠告をかき消すように、佐久間の高笑いが静かなこの部屋に響き渡った。


「人のことを心配してる余裕なんてあるのかい? 自分の今の状況をよく考えた方がいい。君が今立っているのは、果たしてかな?」


「現実……? なにを言って……」


 異変は突然襲ってきた。目の前の空間が歪み始め、周りが真っ白な光に包まれていく。つかさは危険を感じて、後ずさりしようとしたところで、自身の脚が地面に沈み動けなくなっていることに気付いた。

 ゆっくりと身体が沈んでいく感覚は、まるで底なし沼に捕まってしまったかのようだ。


「くそ……! 動けない……!」


 成す術もないまま肩まで沈んでしまったつかさを、佐久間は満足そうに見つめている。


「君の心……いや、夢の中に少しお邪魔させてもらうことにしよう」


 口角を上げていやらしい笑みを浮かべた佐久間の瞳は、血のように真っ赤に染まっていた。

 赤い瞳に吸い込まれ、まるで眠りに落ちてくようにつかさの意識はそこで途絶えた。





 ****



「つかさ。早く起きないと遅刻するわよ」


 懐かしい声が鼓膜を揺らす。閉じられた瞼を、つかさはゆっくりと開いた。


 つかさはなぜかベッドの布団の中にいた。暖かい布団が身体を優しく包み込んでいる。ベッド脇の窓から差し込む太陽の光に、思わず目を細める。

 ここは、寝ては起きてを何度も繰り返したつかさ自身の部屋だ。両親と暮らしていた頃の。


「ほら! なにボーッとしてるの。ごはん食べる時間なくなるわよ」


 なぜここに横たわっているのか分からず、ぼんやりと天井を見ていたつかさに、またが声をかける。

 今度はふんわりと懐かしい香りが鼻腔を刺激して、声のする方へと視線を向けた。


「……母さん?」


 母だった。若い頃の、つかさがまだ十歳の頃の元気な母。ちょうど、獏が人々の夢に現れ始めた年。


「まだ寝ぼけてるの? ご飯できてるから、さっさと着替えて下に降りてらっしゃいね」


 母はそう言って部屋から出ていった。階段を降りていく音がどんどん離れていく。静かになった部屋で、つかさはゆっくりと身体を起こした。


 ――なんで俺はこんなところにいるんだ? なんで母さんが? 確か佐久間の目が赤くなっていてそれで……。


 突然のことに理解が追い付かず、ふと両の手のひらを見たつかさは違和感を感じた。なんとも言い難い、謎の不快感。


 ベッドから身体を下ろして、壁に立て掛けられた姿見に写る自身の姿を見たつかさは、違和感の正体を知った。


「ここ、俺の過去の記憶の中なんだ」


 姿見に写るつかさは、十歳の幼い少年の姿をしていた。



 母に言われた通り服を着替え、階下へと降りる。降りながら、現在の状況を頭の中で整理していく。

 佐久間は赤い瞳をしていた。その瞳は獏の瞳とよく似ている。詳しいことは分からないが、恐らくは佐久間はなんらかの形で獏の力を手にいれたと考えるのが妥当だろう。ここはつかさの記憶の中、つまり夢の中で、佐久間が干渉しているということになる。

 どこかで佐久間が監視しているのは間違いなかったが、現実への戻り方が分からない以上、今のつかさには母の言う通りにすること以外できることはなかった。


「おはよう、母さん」


 コーヒー片手に新聞を開く父。エプロン姿で台所に立つ母。食卓には温かいコンソメスープに、ウィンナー、目玉焼き。ごく普通の家庭の朝食の時間。


 けれど、階段を降りきったつかさの目に飛び込んできたのは、ずっと求め続けた、そんな優しい世界などではなかった。


 つかさの目の前に広がったのは、ベッドの上で眠り続ける母と、そのそばでずっと泣いている父の姿だった。


 ――あぁ。この時の俺に力がなかったから。だから母さんは目覚めることもなくなって、父さんは頭がおかしくなった。全部、俺の力不足で……。


「そのとおりだ。君の力がなかったばかりに、お母さんは獏に心を喰われ、お父さんはその悲しみで病んでしまった」


 弱味を突くような、佐久間のいやらしい言葉がつかさに追い討ちをかける。普段のつかさなら、これくらいの言葉に動じてはいなかっただろう。

 Dream Doctorドリームドクターとして戦うと決めたあの日から、もう後悔はしないと決めたつかさの決意も、目の前の両親の姿と佐久間の言葉で揺らいでしまっていた。


「君は弱い。心が。憧れの存在である大門秀樹の息子として育てられた優秀な直樹くんに、嫉妬に似た感情を抱いたことも少なくないんじゃないか? 君は努力の才能はあっても、天性の才能はないのだから」


 堪らなくなって、つかさは耳を塞いだ。けれど、頭の中に佐久間の言葉が何度も反響する。もう、やめてくれと心の中で叫んだ。

 ダムが決壊したみたいに、昔の記憶と黒い感情がつかさの頭の中と心に溢れ出してくる。



 つかさが十歳の頃だ。獏が、初めて人々の夢の中に現れたのは。


 つかさは普通の少年だった。特に勉強ができるわけではなかったが、できないわけでもない。なんでもそつなくこなせるタイプだった。


 ごく普通の少年が暮らす。ごく普通の幸せな家庭。

 そんな家族の悲劇の始まりは突然だった。元気だった母が、悪夢を見るようになった。病院へ行っても、睡眠薬を飲んでも眠れない。ストレスからきているのだろう、と言う医者の診断を信じて、つかさと父の二人で看病し続けた。


「今日はなんだか、眠れそうだわ。つかさ、一緒に寝ましょう?」


 そう言って笑った母の笑顔はやつれていた。弱々しくて、今にも消えそうだった。

 ずっと眠れなかった母は、その日を境に目を覚まさなくなった。


 夢を喰らう魔物の、最初の犠牲者だった。




「俺は強くなりたかった。弱い自分を、大事な人も守れない自分を殺すために、死に物狂いで頑張ってきた。後悔しないように。ずっと」


 乾いた喉から無理矢理に絞り出された掠れた声は、いつのまにか両親の姿が消えた真っ白な空間に響いて消えた。

 塞いでいたつかさの耳に、一定のリズムで刻まれる心電図の音が入ってくる。閉じていた目を開くと、白いシーツが敷かれたベッドの上で、ずっと眠り続ける母の姿があった。


「君のお母さんは手遅れだった。誰も獏の仕業だなんて思わない。人々が気付いて大門秀樹がやってきた時にはすでに、お母さんの心は喰らい尽くされていた。お母さんを守れなかった君は罪悪感から大門秀樹の元で強くなることを選んだ」


 耳元で囁くのは佐久間のねっとりとした声。気付けば、つかさの真後ろに佐久間が立っていた。つかさの身体は動くようになっていたが、動く気にはなれなかった。


 また場面が切り替わる。

 女の子らしい白とピンクを基調にした部屋。ベッドの上には十代くらいの無表情の少女。そのそばには叫びながら涙を流してくずおれる直樹と、そんな彼を支えるカレンの姿。静かに涙を流すのは少女の兄。


「君は確かに強くなった。心も身体も。しかし、君は大切な友人をまた守れなかった。井上風花いのうえふうかのことだ。あの日、君が彼らと別行動を取らなければあの場にいたなら、彼女は獏と戦う必要もなかったんじゃないか?」


「俺があの時、直樹達と一緒に行っていれば、あんなことにはならなかった……」


 言葉にしてこなかった、してしまったら立ち上がれなくなると分かっていた言葉が口からこぼれた瞬間、目の前の空間が暗闇に包まれた。

 ずっと胸にしまってきた後悔が、佐久間の淡々とした口調でつかさの心に投げ掛けられる。刃となって心に突き刺さった後悔は、閉じかけた傷口を抉り出して、黒い感情がどろどろと溢れていく。目を閉じると、深い深い闇に沈んでいく感覚に侵食されていく。



 ――つかさは悪くないよ。


 突然響いた優しい声にはっとしたつかさの開いた目に映ったのは、一筋の光だった。その光がそっとつかさの手を包み込む。その瞬間、闇を打ち消すように、小さな光は大きくなり空間を照らした。


 ――つかさはあの日、私達と別行動をとったことで、獏に夢を食べられた男の子を救ったじゃない。それでいいの。だって私達は、Dream Doctorなんだから。


 二年前の姿のままだ。つかさの手を優しく包み込んでいるのは、大切な友人であり、仲間の――井上風花だった。


 ――お前は十分、強くなったよ。胸を張れ。


 懐かしい声だった。母が獏に心を喰らい尽くされてから、ずっとつかさを助けてくれた人。皆を守れるようになるために、越えなければいけない人。


「俺は……先生みたいに……先生を越えなきゃいけない」


“先生”と呼ばれた大門秀樹だいもんひできは風花の後ろに立ち、歯を見せて屈託のない笑顔を浮かべた。

 後悔と絶望の狭間で揺れ動いていたつかさの心が、二人の光でしっかりと形を作っていく。


 そんな三人の絆を引き裂くように、佐久間の馬鹿にするような高笑いが響き渡った。

 風花と秀樹の二人は跡形もなく消え、いつの間にか佐久間がつかさの目の前に立っていた。口元にいやらしい笑みを浮かべている。


「君が先生を越える? そんなことできるのかい? 君のように心の弱い人間が――」


「俺は、一人じゃない。直樹が、ジルが、カレンがいる。先生も風花も見てくれてる。仲間がいるんだ」


 佐久間の言葉を遮って力強く、はっきりと告げた。つかさの眼鏡の奥の鋭い瞳には、強い意思がしっかりと宿っていた。



「俺の夢から出て行ってもらう」



 瞬間、つかさの周囲は強い光に包まれ、なにも見えなくなった。ぎゅっと瞼を閉じる。次に瞼を開いた時には、現実の世界に引き戻されていた。なにも変わらないシステムルームがそこにはあった。

 扉の前には、こめかみを押さえて膝をつく佐久間の姿。


「今のはなんだ? 獏の力なのか? お前には負担が大きいんじゃ――」


 言いかけたつかさの視界がぐらりと揺れた。思わず膝をつく。頭の痛みが思考を鈍らせ、呼吸まで乱していった。


「はっ、はぁ……くそ……まだ、拘束を……」


 たとえ、佐久間の力から逃れたといっても、拘束しなければ終わったとは言えなかった。いつまた獏を出すかも分からない。ジルの協力も見込めないこの状況で、獏を出されるのはこちら側の負けが決まるようなものだ。それだけは避けなければいけなかった。


 けれど、現実はそんなに甘くはない。


「君はまだまだ甘い。アンドロイドが居なければなにもできはしない。なにも守れない!」


 膝をついていた佐久間がふらつきながらも立ち上がり、少しずつ、つかさに近付いてくる。なんとかつかさも立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。思考もどんどん回らなくなっていく。


 ――こんなところで諦めるわけにはいかないんだ。まだまだ、俺は――!



「一人で抱える必要なんてないのよ。なんのために私が造られたのかを、たまには考えてみて」


 一瞬の出来事だった。銃の発砲音と聞き慣れたその声がつかさの耳に届いた時には、佐久間は叫び右腕を押さえながら膝をついていた。


 佐久間の背後。開いた扉の向こう側に誰かが立っている。よく目をこらすとそれはアンドロイドだった。その姿を見て、つかさはなにが起きたのかを理解した。


 九十九階に残してきたジルが、確かにそこにいる。その立ち姿はいつもと変わりないように見えるが、彼女の右手は破壊され火花が散っていた。つかさの位置から見えるものだけに限ったとしても、軽い損傷は何か所にも及んでいるようだった。ジルの手にはライフルは握られておらず、佐久間の腕を撃ったのは彼女ではないらしい。


「くそ! ジルか! オリヴィアは、オリヴィアはどうした!」


 血が滴る右腕を押さえる佐久間の額には、痛みからか大粒の汗が流れている。さっきまで冷静沈着だった男の、焦りと怒りの入り交じった声が室内に響く。


「マスター。私ならここにいる」


 ジルと同じ音声。けれど、このしゃべり方は、佐久間をマスターと呼ぶのは、しかいない。


 ジルがこちらに近付いてくるにつれて、彼女の肩に支えられた人影がはっきりと見えた。その人影は、額を弾丸で撃ち抜かれ、火花を散らすオリヴィアだった。

 ジルがここにいるのは戦いに勝ったからなのだろう。オリヴィアがここにいる理由はつかさには分からなかったが、目を隠していた包帯が破れ、露になった赤い瞳からは敵意などは一切感じられなかった。そして、その瞳からは涙のようなものが溢れていた。


「今すぐ、今すぐこいつを殺せ! 今すぐだ!!」


 佐久間は撃たれた右腕を押さえながら立ち上がり、つかさを指差す。後ろで瞳を濡らしながら、ライフルを構え、身体に狙いを定めるオリヴィアの行動には気付いていないなかった。


 乾いた発砲音が二発、室内に響き渡る。痛みに悶える佐久間の声が着弾と同時に上がった。両足を撃たれ動けなくなってもなお、彼はまだ諦めていない。

 後ろを振り返り、自身を撃ち抜いたのはオリヴィアだと気付いたらしい。佐久間は赤い瞳を怒りで揺らし声を荒げた。


「お前……! 私を裏切ったのか! 誰がお前を造ってやったと思ってる!」


「マスター、もう終わりにしよう。私はあなたの笑顔が見たい。優しかったあの頃の――」


 ジルの肩から離れたオリヴィアは、ぼろぼろの身体で佐久間のそばに跪き、頭に手を乗せた。彼女がなにをしようとしているのか佐久間には分かったようだった。怪我をしていない左腕でオリヴィアの手を払いのけようとする。けれど、戦闘型アンドロイドの力に勝てるはずもなかった。


「や、やめろ……まだ私にはやらなければいけないことが……!」


「十分あなたは苦しんだ。もういいんだよ。秀樹先生はこんなあなたを見たら、きっと悲しむ」


 オリヴィアは、子供を諭すような優しい口調で語りかける。佐久間は振りほどこうと掴んでいた手を離した。抵抗をやめた彼の頬には一筋の涙が流れていた。


「……先生……僕は……」



 戦いに終わりを告げる言葉が、静かに、けれどはっきりとオリヴィアの口から放たれる。



削除デリート



 夜明けが、近付いていた。

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